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グランド・ティーチャーズ
中川五郎さんのセンセイたち。ってことは、僕たちのグランド・ティーチャーズ。同時代を生きる共感と敬愛を込めて、ご案内いただきます。

エリック・アンダースンが歌う宇宙に溶け込むバイロンの世界


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 ぼくが初めて人前で歌ったのは今から50年前、1967年3月、高校二年生から三年生になる春休みのことだった。その何年か前、中学二年生になった頃だろうか、アメリカのフォーク・ソングに興味を覚えるようになり、いつか自分もギターを手にして歌を作り、人前で歌いたいという気持ちが漠然と芽生えるようになった。その大きなきっかけとなったのは、フォークの「神様」と呼ばれたピート・シーガーや、フォークの「父」と呼ばれたウディ・ガスリーの存在を知ったからだが、そうした「神様」や「父」だけではなく、彼らの「子供」と呼ばれた、当時20代になったばかりの若い世代のフォーク・シンガーたちにも強く心を惹かれるようになった。
 ウディ・ガスリーの子供の世代だからと彼らは「ガスリーズ・チルドレン」と呼ばれたりして、折からのフォーク・ソング・ブームで日本でも発売されるようになったそうしたフォーク・シンガーたちのアルバムをぼくはお小遣いを貯めてせっせと買い集めていった。ボブ・ディラン、エリック・アンダースン、トム・パクストン、フィル・オクス、パトリック・スカイ、レン・チャンドラー、ピーター・ラファージ、リチャード・ファリーニャ、アーロ・ガスリー、ジャニス・イアンといったフォーク・シンガーたちで、その中でぼくがとりわけ夢中になったのがエリック・アンダースンだった。

 エリック・アンダースンは1972年に『ブルー・リヴァー』という名盤を発表し、日本でもフォーク・シンガーというよりはシンガー・ソングライターとしてその存在を広く知られるようになった(フォーク・シンガーだろうがシンガー・ソングライターだろうが、呼び方がただ違うだけで、エリックの姿勢や音楽性は、歌い始めてから現在まで一貫しているとぼくは思っている)。エリックはその後日本に何度も歌いにやって来て、新しいアルバムが発表されるたび日本でもちゃんとリリースされていたが、それでも2000年代に入ったあたりからは熱心な聞き手を別にすると、日本の洋楽シーンの中で彼の名前が取りざたされる機会はだんだんと減っていってしまった。
 もちろんぼくは熱心な聞き手の一人で、彼が新しいアルバムを発表するたび、いち早く手に入れて何度も繰り返し耳を傾けていたし、来日公演があると必ず駆けつけていた。そしてそんな長い歴史の中で、エリックとぼくは親しい仲となり、彼が日本に来れば必ず会いに行って、一緒に話したりするような関係になっていた。

そして今のところエリックにとって最後の日本公演となる2012年9月3日と4日の東京六本木のビルボード・ライブでのコンサートを見に行って、終演後に楽屋で彼と会った時、来年2013年2月14日の聖バレンタイン・ディにちょうど70歳になるエリックから「70歳の古希を祝ってバースディ・パーティを開くからゴローもぜひおいでよ」(「古希」とは言わなかったが…)と誘われた。
 エリックが現在暮らしているのは、オランダのユトレヒトの近くの町で、何とぼくは後日エリック本人からバースディ・パーティの招待状を送ってもらい、2013年2月14日に彼の自宅近くにある大きな農家を会場にして行われたパーティの前後のおよそ一週間、このパーティのためだけに日本からオランダへとはるばる出かけて行ったのだ。
 2012年9月のエリック・アンダースンの最後の日本公演については、このウェブ・マガジンのぼくの連載記事「グランド・ティーチャーズ」の第40回(2012年9月末)「7年ぶりに日本に歌いにやって来たエリック・アンダースン」、そしてエリックの70歳のパーティについては第46回(2013年3月末)「最も敬愛するシンガー・ソングライターのバースディ・パーティのためだけに東京からオランダへ」で詳しく書いているので、まだ読まれていない方は是非とも読んでほしい。

 オランダで開かれたエリック・アンダースンの70歳のバースディ・パーティの時、エリックは「まだ誰も聞いたことがないだろうけど」と言って、2013年の春にリリースされる予定のアルバムの中の曲を娘のサリや奥さんのインゲと一緒に歌ってくれた。その時のエリックの話では、新しいアルバムは『Dance of Love and Death』というタイトルで、スティーブ・アダボのプロデュースでニューヨークで録音され、インゲや2012年9月の東京公演にも一緒にやって来たイタリア人バイオリニストのミケーレ・ガジッチ、それにレニー・ケイやラリー・キャンベルといったアメリカのミュージシャンたちもレコーディングに参加しているということだった。そのアルバムはほとんど完成しているともエリックは言っていたように記憶するが、パーティから5年以上が過ぎた今も一向にリリースされる気配がない。 エリック・アンダースンのニュー・アルバム『Dance of Love and Death』はいったいどうなってしまったのだろう?
 
 残念なことに『Dance of Love and Death』は消息不明になってしまったが、2013年2月の70歳のバースディ以降、エリックはそれとは別に2枚のニュー・アルバムをリリースしている。
 まずは2014年8月に『Shadow & Light of Albert Camus』がドイツのMeyer Recordsからリリースされ(4曲入りのこのアルバムは当初は10インチのアナログ・レコード2枚組というかたちで発売され、後にCDでも発売された)、今年2017年5月には、同じくMeyer Recordsから『Mingle With The Universe : The Words of Lord Byron』がリリースされた。
 それぞれのアルバム・タイトルからわかるように、『Shadow & Light of Albert Camus』は、アルベール・カミュの作品にインスパイアされてエリックが作った4曲、「The Plague(Song of Denial)」、「The Stranger(Song of Revenge)」、「The Rebel(Song of Revolt)」、「The Fall(Song of Gravity)」が収められていて、『Mingle With The Universe : The Words of Lord Byron』は、エリックがバイロンの詩に曲をつけたり、バイロンをテーマにして作ったオリジナル曲など、全部で14曲が収められている。

 エリック・アンダースンとアルベール・カミュは、「なるほど」とわかる気がするが、エリックとバイロンの結びつきはぼくにとってはちょっと意外だった。
 バイロン、1788年にロンドンで生まれ、1824年、36歳の若さでギリシアのミソロンギで熱病にかかって亡くなった、バイロン卿として知られる大詩人のジョージ・ゴードン・バイロン。エリックはどんなかたちでバイロンと結びつき、バイロンを歌ったアルバムまで作るようになったのだろうか?
『Mingle With The Universe : The Words of Lord Byron』には、30ページにも及ぶ豪華なブックレットが付いていて、そのうちの11ページを費やして(残りの19ページには詩や歌詞、クレジットなどが掲載されている)エリックが詳しい解説を書いている。
 エリック自身の解説文によると、彼が「ザ・ロード・バイロン・プロジェクト」と呼ぶバイロンの詩に曲をつけて歌にしたり、バイロンについてのオリジナル曲を作ったりする試みを開始するきっかけとなったのは、イングランドのノッティンガムシャーのバイロンの祖父以来の領有地にあるバイロンの住居、12世紀に修道院として建てられたニューステッド・アビーの屋根が雨漏りしていたことだった。
 ニューステッド・アビーは、バイロンに関連する名所旧跡として一般公開されていて、2014年5月、エリックは観光客の一人として初めてそこを訪れた。彼はガイドの人たちに屋敷内を丁寧に案内してもらい、バイロンについての詳しい説明も受け、とても有意義な体験をした。その時エリックは、二人のガイドがニューステッド・アビーのグレート・グリーン・ホールの屋根が雨漏りしていて、美しい部屋や貴重な日本の屏風などがダメージを受けていると話しているのを小耳に挟んだ。
 何か自分にできることはないだろうかとエリックは考えた。そしてグレート・グリーン・ホールの屋根が雨漏りし、部屋や貴重な美術品や家具が被害にあっていることをみんなに知ってもらい、何とか屋根を修復する費用を算出できないだろうかと、グレート・グリーン・ホールで屋根修復のためのベネフィット・コンサートを開くことを思いついた。そこでノッティンガム市議会に話を持ちかけてみると、翌2015年の夏にグレート・グリーン・ホールでエリックのベネフィット・コンサートが行われることが決まり、そこで彼はバイロンの詩に曲をつけたり、バイロンについての曲を作ったりする作業に集中して取り組むこととなった。

 そして16ヶ月後の2015年9月3日、ニューステッド・アビーのグレート・グリーン・ホールでエリックの「ザ・ロード・バイロン・プロジェクト」のベネフィット・コンサートが、エリックの歌とギター、ミケーレ・ガジッチのバイオリン、ジョルジオ・クルセッチのウードのトリオ編成での演奏で行われた。バイオリンとウードという楽器と共に演奏したのは、バイロンが地中海沿岸を旅した時にきっとこれらの楽器の音色を耳にしたに違いないという、エリックのバイロンへの思いが込められている。コンサートの模様はノッティンガム・イースト・ミッドランド・テレビによって収録され、オン・エアされた。
 このコンサートをもとにしたアルバムを作ろうという話があちこちから持ち上がらないわけがなかった。エリックとしてはニューステッド・アビーのグレート・グリーン・ホールで、もしくは似たようなイングランドのギルド会館でレコーディングをして、「ザ・ロード・バイロン・プロジェクト」のアルバムを作ることを願っていたが、資金的に厳しいものがあった。そこでケルンのMeyer Recordsのウェルナー・メイヤーに相談を持ちかけ、2016年1月から2月にかけてケルンのスタジオでミケーレやジョルジオのほかにハーモニー・ヴォーカルでエリックの奥さんのインゲ・アンダースン、ピアノでPaul Zoontjensも加わってアルバム『Mingle With The Universe : The Words of Lord Byron』のレコーディングが行われた。その後アメリカのペンシルヴァニア州のスタジオでシェリル・プラッシュカーによるジャンベやパーカッションが追加録音されている。

 それにしてもエリック・アンダースンと19世紀前半のイギリスの大詩人、バイロン卿とはと、改めてその結びつきに意外性を感じてしまうが、『Mingle With The Universe : The Words of Lord Byron』のブックレットのエリックによる長い解説文を読むと、彼がどうしてバイロンに惹かれるのか、バイロンのどこに魅力を感じるのか、そしてバイロンのどこに自分と合い通じるものを見出しているのか、それがよくわかる。
 エリックは解説文でバイロンについて、「1812年にパンク・シーンが存在していたとしたら、バイロンはセックス、ドラッグ、ロックン・ロール・ライフの手本となる初めての青写真を作り上げた人物として、『ザ・ファースト・バッド・ボーイ・オブ・ロック』とたちまちのうちに呼ばれていたことだろう」と書いている。

 バイロン詩集に関して、今もいちばん手に入りやすいのは新潮文庫版の『バイロン詩集』だろうが、そのあとがきで訳者の阿部知二さんがバイロンの生涯の大筋を簡単に記述されている。それを読んでみても、確かにバイロンの生き方にエリックが強く惹かれているであろうことがよくわかる。少し長くなるが阿部知二さんの文章を引用してみよう。
「バイロン〜George Noel Gordon Byron〜は、一七八八年にロンドンに生まれたが、放蕩の貴族だった父は家を捨てて国外にさすらい、まもなく死亡した。それで母方の郷里であるスコットランドの北岸アバディーン、それからイングランドのノッティンガム州の僧房後のバイロン家の館に、というように移りながら、貴族としては貧しい、そして寂しい日々を、気むづかしい母と送らなければならなかった。彼は、古い異常な性格の祖先たちを持つ貴族の血統をうけていたうえ、生まれながらのびっこであった。幼いときから、誇りと、強い自我と、暗く鬱屈した心情とを持っていた。少年のころのいく人かの少女たちへの思慕、それからしだいに自我の強さを募らせつつ青年期に入り、美貌と傲慢で奔放な心を抱く驕児または蕩児として、ケンブリッジ大学を終えた」
 阿部さんの文章をもとにその後のバイロンの生涯を追いかけてみると、「やがて耐えがたく重苦しい心のはけ口をもとめて、長い地中海地方の旅へと出ていった」、「上院議員になり、当時騒動をおこしていた労働者たちのために過激な演説をした」、「心おごった大貴族夫人カロライン・ラムとの自我の火花をちらし合う恋愛とその破綻、数学にひいでたという理性的な女性アナベラ・ミルバンクとの恋愛と結婚とそれからたちまちの破局、異母姉オーガスタとのひそやかな愛、詩人シェリーの義妹クレア・クレアモントとの恋愛」、「孤独の底におちいった彼は、憤激絶望しながら、国を捨てて、…あるいは捨てることにまで追いつめられて、大陸へのがれるほかなかった」、「ダイチオリ伯爵夫人との恋」、「トルコの圧政に抗して立って独立を求めるギリシア人のために、その情熱と意欲は目ざめてうごきだし、自ら義勇軍をつのり、それをひきいてギリシア西岸のミソロンギに上陸した」、「戦いをすすめようとしているうちに、熱病にかかり一八二四年四月十九日に亡くなった。ギリシア独立の恩人として名をとどめた」

 エリック・アンダースンの『Mingle With The Universe : The Words of Lord Byron』には、「Song to Augusta/オーガスタに寄す」、「She Walks In Beauty/かのひとは美わしくゆく」、「Child Harold’s Farewell/チャイルド・ハロルドの告別」、「When We Two Parted/二人が別れたとき」、「So We’ll Go No More A-Roving/いまは、さまよううのはやめよう」など(邦題は新潮文庫『バイロン詩集』のもの)バイロンの詩をもとにしてエリックが作った曲が11曲、「Hail To The Curled Daring」に「Albion(Byron On The Waves)」と、エリックがバイロンをテーマに作詞作曲したオリジナル曲が2曲、そしてジョルジオ・クルセッチが作曲したウードのインストゥルメンタル曲「Taksim」が1曲の全部で14曲が収められている。
 バイロンの詩に曲がつけられていても、歌やメロディ、歌い方はまさに不滅の「エリック節」そのもので、ぼくは新潮文庫の『阿部知二訳バイロン詩集』を片手に(もちろん白凰社の『小川和夫訳バイロン詩集』でも角川書店の『斎藤正二訳バイロン詩集』でも大丈夫だが)、エリックの最新オリジナル・アルバムとして『Mingle With The Universe : The Words of Lord Byron』に繰り返し耳を傾け、楽しく充実した時間を過ごしている。
 そして『Dance of Love and Death』もそのうちきっと、それほど先ではなく、ぼくらのもとに届けられることになるのではないだろうか。エリックの最後の来日公演からもすでに5年、日本にもまた歌いに来てほしい。エリック・アンダースンをめぐる楽しみの種は尽きない。

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