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グランド・ティーチャーズ
中川五郎さんのセンセイたち。ってことは、僕たちのグランド・ティーチャーズ。同時代を生きる共感と敬愛を込めて、ご案内いただきます。

ジョーン・バエズの歌手引退宣言


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 ジョーン・バエズが歌手活動からの引退宣言をした。ジョーンは1941年1月9日、ニューヨークのスタテン・アイランドの生まれだから、現在77歳。13歳の時に叔母たちに連れられて行ったピート・シーガーのコンサートで、ピートの歌に感銘を受け、彼の歌を自分のレパートリーにしてすぐにも人前で歌い始めた。それから数年後の1957年には初めてのギターを手に入れ、翌58年頃からは親の仕事の関係で引っ越したマサチューセッツ州のボストンやケンブリッジのフォーク・クラブで本格的な演奏活動を開始した。それから数えると今年でちょうど60年間歌い続けてきたということになる。
 ジョーン・バエズは今年2018年3月に自分の歌手人生で最後のアルバムとなる『Whistle Down The Wind』を発表し、そのアルバムの発売に合わせて、2018年3月のストックホルム公演から2019年2月のフランクフルト公演まで、ヨーロッパや東欧、カナダやアメリカの各地90ヶ所、11ヶ月に及ぶ最後のワールド・ツアーを行い、それをもって歌手活動から引退すると宣言した。
 引退の直接の、そしていちばんの理由は、自分の声域が狭まり、高い声が出なくなってしまったということだ。そしてジョーンは過去に自分が発表してきた40枚近くに及ぶアルバムを本に喩え、ラスト・アルバムの『Whistle Down The Wind』はブックエンドになるような作品だと表現している。

 歌手が引退宣言をするということに関してはさまざまな考え方や意見があるだろう。百人の歌手がいれば、百通りの考え方があると思う。ぼくは個人的には、歌手には引退や定年はないと考えている人間で、たとえ声域が狭まってしまっても、それこそほとんど声が出なくなってしまっても、違うやり方がある、新たなやり方があるのではないか、むしろそれは素晴らしいことなのではないかと思ってしまう。極端で乱暴な言い方をすれば、歌とは声ではない、声だけで歌うものではないと考えてしまうのだ。
 しかしジョーン・バエズの場合は、自分の声域が狭まり、高い音が出せなくなって、自分の思うような歌はもう歌えない、納得のいく表現はもうできないということに気づき、ノスタルジーに浸ることはきっぱりと断ち切り、喜んであきらめ、歌手を引退する宣言をしたのだろう。ジョーン・バエズにはもっともっと歌い続けてほしくても、ぼくらは彼女の決心を尊重して、受け入れるしかないのだ。

 そうだとはわかっていても、ぼくはジョーン・バエズの引退宣言がとても残念だし、つらくて悲しくてたまらない。というのも、ここ10年以上、ぼくはずっと今のジョーン・バエズに注目して、彼女を追いかけ続けていた。彼女が新しいアルバムを発表すればすぐに買い求め、何度も耳を傾けていた。最新アルバムの『Whistle Down The Wind』も発売と同時にすぐに手に入れ、これはほんとうに素晴らしい作品だ、彼女がこれまでに発表したスタジオ録音アルバムの中での最高傑作だと断言してもいいのではないかと思っていた。そこに引退宣言のニュースが突然舞い込んできたのだ。これはショックだった。ジョーン・バエズは今がいちばん素敵だと思っていたのに…。

 1960年代半ば、ぼくはブラザーズ・フォアやキングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリーといったモダン・フォーク・コーラス・グループに心を奪われてアメリカのフォーク・ソングの世界に誘い込まれ、その中でウディ・ガスリーやピート・シーガーを知り、そこからボブ・ディラン、トム・パクストン、エリック・アンダースン、フィル・オクスといったフォーク・シンガーたちを次々と聞くようになっていった。
 そして女性のフォーク・シンガーといえば、当時はジョーン・バエズとジュディ・コリンズの二人だった。彼女たちはそれぞれフォークの女王、フォークの女神などと呼ばれ、フォーク・ファンの間では「きみはジョーン派、それともジュディ派?」なんて問いかけがなされたりしていた。
 その頃ぼくはジュディ派で、新しいフォーク・シンガーの曲を積極的に取り上げたり、いち早く自分で曲を作ったりする彼女に比べ、ジョーンはあまりにも伝統的で正統的なフォーク歌手のような印象を持っていた。もっともそれはぼくの単なる思い込みで、今振り返ってみると二人ともフォークの世界では同じぐらい先進的で革命的で柔軟だったのだが、ぼくにとってはジョーンはどこか近寄りがたいような高貴な雰囲気が漂っていた。もしかするとそれは50年後に彼女を引退へと導く高音のせいだったのかもしれない。

 日本のフォーク・ソング・ブームの中でも、アメリカの女性フォーク歌手といえばジョーン・バエズ、フォークの女王といえばジョーン・バエズという存在だったから、日本でフォーク・ソングの人気がなくなり、フォーク・ソングがあまり聞かれなくなってしまうと、ジョーン・バエズは過去の栄光が大きかっただけに絶えず過去に縛られ、それゆえ彼女がいろいろと新しいことをやってもあまり注目されないようにぼくには思えた。もちろんそれはジョーンのせいではなく、聞き手のぼくらがいつまでも彼女を過去の枠の中に押しとどめ続けているようなところがあったからだ。
 1960年代半ばから現在までぼくはジョーン・バエズをずっと聞き続けていて、1960年代のフォーク歌手の時代、シンガー・ソングライターとして花開いた1980年代などさまざまな時代に立ち会っているが、前述したように最近の、今のジョーン・バエズがぼくはいちばん好きだ。とりわけ1990年代後半以降に彼女が発表したスタジオ録音のオリジナル・アルバムは聞き応えのあるものばかりだ。
1997年の『Gone From Danger』(ダー・ウィリアムス、リチャード・シンデル、シネイド・ローハンなど若い世代のシンガー・ソングライターたちの曲が数多く取り上げられている)、2003年の『Dark Chords on a Big Guitar』(ここでもジョッシュ・リッター、ライアン・アダムス、ナタリー・マーチャント、ギリアン・ウェルチ&デヴィッド・ローリングス、ジョー・ヘンリー、スティーヴ・アールなどさまざまなシンガー・ソングライターの作品が取り上げられている)、2008年の『Day After Tomorrow』(スティーヴ・アールのプロデュース作品で、スティーヴ・アール、トム・ウェイツ&キャスリーン・ブレナン、エリーザ・ギルキーソンなどが書いた曲を歌っている)と、いずれもそれぞれの時代に鋭く響く歌が取り上げられた新鮮でコンテンポラリーな内容のアルバムばかりだ。
 ほんとうに残念なことに、この時期のジョーン・バエズのアルバムは日本ではきちんと紹介されることはなく、熱心なファンやフォーク・ソングの愛好家以外にはほとんど伝わることはなかったのではないだろうか。

 最新作でラスト・アルバムとなる『Whistle Down The Wind』もまた、1990年代後半からのこれらのジョーン・バエズのアルバムの延長線上にある作品だと言える。今回のアルバムのプロデュースは、自らシンガー・ソングライターでありながらさまざまなアルバムでプロデューサーとしても辣腕を振るっているジョー・ヘンリーだ。そしてそのジョー・ヘンリーやトム・ウェイツ&キャスリーン・ブレナン、ジョッシュ・リッター、エリーザ・ギルキーソン、メアリー・チェイピン・カーペンターなど、ジョーンのお気に入りのシンガー・ソングライターたちの作品が取り上げられ、彼女はジェイ・ベルローズ(ドラムス)、デヴィッド・ピルチ(ベース)、パトリック・ウォーレン(キーボード)、タイラー・チェスター(キーボード)、グレッグ・リーズ(ギター)、マーク・ゴールデンバーグ(ギター)、ジョン・スミス(ギター)などベテラン・ミュージシャンたちの見事な演奏をバックに素晴らしい歌を聞かせてくれる。確かにその声はかつてのように澄んで高いものではなく、落ち着いて、ゆったりとして、少し掠れたものにもなっているが、その分深みと重みが増し、歌に対するジョーン独自の解釈や理解も奥行きのあるものとなり、ひとつひとつの言葉に込められた声の響きそのものにとんでもなく説得力があるようにぼくには思える。

 この新しいアルバムに収めた歌に関してジョーンは、「お別れの言葉を伝えるというよりは、今の時代に語りかけるもの」といった発言をしている。確かにアルバムの中のいくつかの歌で別れや旅立ちを歌っていても、ジョーンの歌からはこれで終わりなのではなく、ここからが始まりなのだというポジティヴな思いが伝わってくる。新しいアルバムには、2015年6月にサウスカロライナ州チャールストンの教会で21歳の白人青年が銃を乱射し、そこにいた9人の黒人が殺害され、その追悼式で当時のオバマ大統領が「Amazing Grace」を歌ったことをゾーイ・マルフォードが歌にした「The President Sang Amazing Grace」も歌われていて、もちろんその曲だけではなくアルバム全体からは、今現在のアメリカが抱える問題にまっすぐ立ち向かおうとするジョーン・バエズの姿がはっきりと浮かび上がってくる。

 ジョーン・バエズにとって引退とは隠遁ではない。歌手をやめるということは隠居するということではない。最後のアルバムを発表し、最後のワールド・ツアーを終えると、彼女は歌手としての表立った活動はやめてしまうことになるが、それでもさまざまな社会的活動は続けて行くし、今彼女が夢中になって行なっている表現活動は絵を描くということだ。社会活動をしたり、政治に関わったり、そして絵を描いたり、それはかたちこそ違え、ジョーン・バエズにとっては声を上げるということ、すなわち歌を歌うということなのだ。
 ジョーンの「歌」がもう聞けなくなるのは、とても残念で、つらくて悲しいことだが、ぼくは今までとは違うもうひとつの彼女の歌をこれからも聞き続けられることを楽しみにしている。

 ジョーン・パエズのラスト・アルバム『Whistle Down The Wind』は、この4月にP-Vineから日本盤が出ることになっていたが、最新情報では発売中止となってしまったようだ。詳しい情報がわかったらアップデートするが、輸入盤でCDやLPレコードを手に入れて(今のところストリーミングはないようだ)、この素晴らしい作品にぜひとも耳を傾けてみてほしい。

<関連リンク>

ジョーン・バエズのホームページ
http://www.joanbaez.com/home/

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