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不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

心が先か、行動が先か


どうにも気が滅入って、ヤル気がまったく起きない。そこまでひどくなくても、なんとなく気持ちがローで、毎日の生活に張り合いがない。

ジコケーハツの魔の手が忍び寄るのは、そんなときだ。

ネガティブシンキングな人々に、ジコケーハツが働きかけるアプローチは大ざっぱに二通りに分けられると思う。

一つは、意識改革。心を入れ替えることを推奨するものだ。

たとえば、2003年に大ベストセラーとなった『「原因」と「結果」の法則』はまさしくそんな成功哲学本であり、本書に言わせると、現在の自分という「結果」は、すべて「思い」や「心」が原因になっているんだとか。

つまり、自分が置かれている環境、人格、健康。これらはすべて、心のコントロール次第なのだから、理想に燃えて信念を手放さずにいれば、目標は必ず実現できるというわけ。逆にいえば、いまの自分がダメなのは、日ごろの心がけが悪いから、ということでもある。

この唯心論的なジコケーハツに対して、「まずは行動ありき」の唯物論的ジコケーハツがある。

前回にも取り上げた『キッパリ!』の「靴を揃える」が典型的で、こちらは行動が心のあり方を定めていく、というリクツだ。

〈慣れないと初めはめんどうに感じるかもしれないけれど、帰るときにそろっている靴にすっと足を入れるのは、結構気持ちがいい。ちょっとしたことなのに、かなり気分が違うんです〉

この「まずは行動ありき」の効能については、パスカルが面白いことを書いている。『パンセ』のなかで信仰心を持つための方法を説いたくだりだ。

〈それは、すでに信じているかのようにすべてを行なうことなのだ。聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどのことをするのだ〉

分かりやすくいえば、信仰心があるから、儀式に参加するのでない。逆に、儀式に参加することで、信仰心が生まれてくる、ということである。

このパスカルとまったく同じことをいっているのが、マンガ家、イラストレーター、エッセイストなどなど、さまざまな分野で活躍している、みうらじゅんだ。

彼は『新親孝行術』という本のなかで、旧来型の親孝行の限界を指摘し、親孝行はプレイであることを高らかに謳っている。

〈親を喜ばせるという行為は、もはや「心の問題」ではなく、実際にどう行動するか――つまり「プレイ」の一貫なのである。心に行動が伴うのではなく、行動の後に心が伴うのが、現代の親孝行なのだ〉

つまり、「親孝行の気持ちがあるから、親孝行の行動をする」のではなく、「親孝行の行動をするから、親孝行の気持ちが生まれる」のだと。

脱線になってしまうが、みうらじゅんは、“行動が心のあり方を定めていく”という考え方をずいぶん気に入っているようだ。たとえば、「マイブーム」について、こんなことを述べている。

〈やっぱりね、たくさん買わないとダメです。ものは、たくさん買うことによって好きになるわけであって、「ちょっと見て好きになる」なんてダメです。どれだけ金を使うか、どれだけ人から「無駄だな」と思われる時間を使っているかで、ものは好きになっていくんです〉

ここにも、好きだから買うのではなく、買うから好きになるという因果関係の逆転を看取できよう。

何の話をしていたかというと、ジコケーハツの典型的なアプローチには二通りあって、一つは心ありき、もう一つは行動ありき、ということだった。

しかし当たり前のことであるが、これは二者択一のどちらが正しく、どちらが間違っているという話ではない。それなのに、『「原因」と「結果」の法則』のような本は、あらゆる事象を心の問題として還元しようとするところが罪深い。

だって、両方のベクトルがあるのが当たり前じゃん。

〈目的地にたどりつくまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように歩んでゆく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどりつくことができる。「夢を実現する」というのは、そういうことなのである〉(内田樹『街場の現代思想』)

というように、未来に向けた意識的な想像が、具体的な成果を引き寄せることはもちろんある。

しかしその一方で、パスカルやみうらじゅんの例のように、行動することで心が定まっていくことだってあるのも確かだと思う。歌うことの高揚感を、何もせずに心の中だけに生み出すのは相当困難だ。イマイチな気分だったのが、原稿を書いているうちにノリノリになってくることだって(たまには)ある。

このことをわきまえていないと、どうなるか。

先に引用した現代思想の研究者であり、人気論客でもある内田樹センセイは、若いころに恋人にこんなふうに言ったそうだ。

「君を愛しているのかどうか、僕にはよくわからないんだ。でもね、『君を愛しているかどうかよく分からない』と君に告白する僕の誠実さだけは信じてほしい」

イタタタ……。僕も似たようなことをさんざん繰り返したような気がしないでもないので、他人事ではない。

当然、内田さんの当時の彼女は「憤然と去ってしまった」。

こうして内田さんは次のことに気づいたわけだ。

〈「愛している」は私の中にすでに存在するある種の感情を形容する言葉ではなく、その言葉を口にするまではそこになかったものを創造する言葉だったのである〉

「愛している」と口に出すことが、ある種の感情を引き連れてくる。

このことに自覚的になるだけで、恋愛の失敗可能性はちょびっと軽減するかもしれない。

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