ホームホームマガジン > 斎藤哲也/不思議のフシギ > 熱中と退屈のはざまで

不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

熱中と退屈のはざまで


「微分積分なんて勉強したって、何の意味があるんだよ」

 勉強嫌いの学生は、おうおうにしてこんな言葉を口にする。もっと抽象的にいえば、「何のために勉強するのかわからない」というわけだ。

 彼のロジックによれば、「何のために勉強するのかわからない」から「勉強したくない」ということになる。

 同様のロジックは、仕事にも適用可能だろう。すなわち「何のために働くのかわからない」から「働きたくない」。

 働くことのほうは、ひとまず「食べるため」という生存に関わる目的を挙げることができるが、勉強することの意味は、きちんと応答しようとするとたしかに難しい。

 そりゃ足し算、引き算とか九九ぐらいなら、それなりに説明もできるだろう。相手が小学生なら「おつりを計算できないと、損するよ」ぐらいで説得できるかもしれない。会社の仕事だって掛け算、割り算程度はさすがに必要だ。読み書きや簡単な計算までの勉強なら、「支障なく社会生活を送るため」という説明にも説得力がある。

 でも、サインコサインなんちゃらといった三角関数やら微分・積分やらになると、むろんそれらを必要とする職業はあるだろうが、必要としない仕事だってゴマンとある。少なくとも僕自身、社会に出てから、三角関数や微分・積分を必要としたシーンはこれまでにない。

 ふむ。ということは、実効性という観点から「何のために三角関数の勉強をするのか」を答えることは極めて困難だ。

 しかし、そもそもなぜ「何のために」という問いが発せられるのか。

 じつは「何のために勉強するのかわからない」から「勉強したくない」というリクツは、逆向きの可能性はないだろうか。

 つまり、意味や目的がわからないから行動しないのではなくて、そもそも行動したくない気持ちが先にあって、その正当化のために、意味や目的の不在が呼び出される。

 だって、ひとは意味のないことだって、面白ければいくらだってやるでしょ。

 ゲームに興じる人は、ゲームの外に何か実効的な目的があってゲームをするわけじゃない。単純にゲームそのものが面白いからだ。ゲームに熱中する彼の中に、「何のためにゲームをするのか」という問いが浮かぶとは、とても思えない。

 僕自身はあまり好みのメッセージではないが、「好きなことを仕事にしなさい」という教訓が繰り返し語られるのは、好きなことなら、苦労やガマンも含めて、それ自体を面白がれるからだろう。ゲームの達人だって、相当のエネルギーやコストかけて達人になるわけで、ゲームのための苦労なら惜しまない。

 逆にいうならば、勉強嫌いの子供に、勉強が役立つことを一生懸命に説いたところで、勉強好きになる可能性は低い。

 そのぐらいなら、「勉強は面白い」と思わせるような教え方や教材の工夫をしたほうが、勉強好きに転じる確率は高いだろうし、実際、多くのすぐれた教師はそうやって学習への興味を引き出しているはずだ。

 とはいうものの、勉強とゲームを比べれば、ゲームのほうがはるかに「面白さ」を手に入れるまでのハードルは低いことは、何も脳科学の成果を参照しなくったって、わかりきったことだ。

 それゆえ、勉強自体を面白がらせることにも限界があるといわざるをえないのだけど、仮に勉強がゲームと同等か、それ以上に面白くなったとして、それはそんなにすばらしいことだろうか。

 誰もが我先にと、楽しそうに問題を解く。勉強そのものが楽しくて楽しくて仕方がない。そんな生徒であふれる学校をどう思うだろうか。

 僕はなんだかキモチワルイ感じがする。このキモチワルイ感じを、哲学者の入不二基義氏はうまく説明してくれている。

〈しかし、その自己目的的な「快楽」をポジティブに言い続けることもまた、どこか強迫神経症的であり、別の何かから逃げているように見える。つまり、そのような自律的で自己目的的な「豊かな生」は、「虚しさ」や「退屈」を忘却しようとすることと紙一重である〉(『足の裏に影はあるか?ないか?』所収「便利と快楽のニヒリズム」より)

 そうなのだ。「何のためにするのか」と問いを発することは、目前の「しなければならない」からの逃避であると同時に、その理想的な処方箋と思われた「それ自体が面白い」活動もまた「したくないこと」からの逃避なのだろう。

 わが人生を振り返っても、マンガやゲームに熱中したのは、勉強や仕事からの逃避という側面が強かった。

 勉強が快楽そのものとなれば、きっとまた別の苦がどこかで生じているだろうし、そこから逃げるために人は勉強中毒になってしまうのかもしれない。

 おっと、少々思弁的になりすぎた。いまのところ、学校の勉強は圧倒的に面白くないものだから、どんどん楽しい工夫を増やせばいいと思う。いや勉強にかぎらず、人生は楽しいほうがいいに決まっている。

 でもその片方で、「退屈」とか「つまらない」を人生に不要なものとしてゴミ箱に投げ込むことには慎重になったほうがいい。

「いいことばかりはありゃしない」とぼやく程度に、毎日の暮らしには「退屈」や「つまらない」が詰まっている以上、「虚しさ」と上手につきあう術も知っておくべきだろう。

 戦前戦後の半世紀にわたって、国語教師として生き抜いた大村はま氏は、教えることの鉄人だった。その大村さんが次のように語っている。

〈子どもがやりたいと言ったことをそのまま根拠にしてはだめ。人間、やりたいことをやるのも大事なことだけど、やりたくないことでも、やるべきならするようでないと世の中が困ってしまうでしょう〉(『教えることの復権』)

「つまらないことでもやる」「やりたくないことでもやる」を学ぶのも大事な「勉強」だと思うのだ。

  • 前回の記事
  • この連載のトップ
  • 次回の記事

▲新着順▲著者順