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アンダーウォーター
水中を優美に泳ぎまわるように見えつつ、水面下では激烈な男の世界が繰り広げられる競技、水球。高校運動部の厳しい練習に辟易しつつも耐え、ポップ・カルチャーを全身に浴びて過ごした90年代の回想的小説。

クールの基準


登場人物


学生たちは駅の北側を「エキウラ」と呼んでいた。
大学キャンバスや高校校舎、プールなどがある駅の南側が「表」で、
商店街や住宅地の広がる駅の北側は「裏」というわけだ。
こっちが表で、向こうは裏。
街として栄えているのは駅の北側なのだが。

僕たち一年生部員7人は信号を渡り、駅の脇を抜け、エキウラのロータリーに出た。
午後7時3分前。
駅の改札口から、若い駅員が改札鋏を鳴らす音がカタッ、カタカタカタッとリズミカルに響いてくる。
その脇を通って次々と出てくる、会社帰りのサラリーマンやOL。
ロータリー端のバス停では鈍い銀色のバスが前後の扉を開き、
主婦や老人、部活帰りの中高生、塾帰りの小学生をとめどなく吐き出す。
エキウラは賑わっていた。
僕たちは人の波を斜めのステップで跳ぶようにかわし、小走りで進む。

合宿中の夕食は全て、レストラン「コースト」に予約してあった。
コーストは、ロータリーから放射状に伸びる三本の通りのうち
右の通り、通称「バス通り」を少し行った先にあった。
夕食の開始時間まであと3分。
この調子で行けば間に合うだろう。
バス通りの入口で白井が立ち止まって、皆に向かって言った。
「悪い、ちょっと待って」
白井は缶ジュースの自動販売機の前で立ち止まると
200円を投入して、ボタンを連打した。

水球の練習をしていると、プールの水を呑み込んでしまうことが頻繁にある。
それでも喉は渇くものだ。水中であっても、運動をすれば身体は汗をかく。
練習を終えた僕たちがまず欲っするのは、冷たい飲み物だった。

練習が終わると、白井は決まって
キリン・メッツのグレープフルーツ味を2本買う。
でっぷりと膨らんだ腹には、350ml缶1本では足りないらしい。
ガタッゴトゴトン、と落ちてきた缶を屈んで取り出すと
立ち上がって急かされるようにプルトップを引き、背を反らして5秒で飲み干す。
喉を刺すような炭酸の刺激に溜め息をつき、とろんとした目つきでげっぷを吐くと
もう1本を開け、やはり一瞬で空けてしまうのだった。
500mlのペットボトルがあれば、それを2本買っていたかもしれない。

「オレも買お」
白井の飲みっぷりを見て喉の渇きを思い出したのか、
長谷部はズボンのポケットをまさぐり、すぐに大きな声を出した。
「ヤッべ!部室に財布忘れてきた」
すかさず小柴がつっこむ。「バカ、また忘れもんかよ」
「わりぃヨンピル、100円貸して」
「オッケー」
僕は長谷部に100円玉を一枚渡す。
「オレも飲もっと」「オレも」「オレも買う」
結局、7人全員が飲み物を買った。白井以外の6人が揃って選んだのは
新発売の清涼飲料水、ポストウォーターだ。
スポーツ・ドリンクらしからぬほのかなライチ味と
「浸透圧が体液に近い」という売り文句が新鮮だった。
「500万年も飲んでると、水にも飽きたぜ!」
とナレーションが入るテレビCMは強く印象に残り、
当時、ポストウォーターは水球部内で最もクールな飲み物と認められていた。
水球部だけではない。僕たちの学校全体が、その価値観を共有していた。
飲み物ひとつとっても、かっこいいか、かっこわるいかの見極めが求められる。
それが僕たちの高校だった。

新しいものが登場するたびにこれはかっこいい、これはかっこわるい、と評価を下すのは
学内のオシャレな不良たちだった。
彼らの感覚が「これよくね?」「終わってんなこれ」と定めた基準は
ほどなく全校に広まり、「あり」か「なし」かの二元論で認知される。
クールの基準、とでも呼ぶべきその価値観は様々な事柄を網羅した。
服、靴、鞄、音楽、学内でのみ通用するスラング、飲み物の選択、
果てはポテトチップスの食べ方に至るまで。
例えば音楽ならば、ヒップホップはあり、ブラコンはなし。
ユーロビートは論外だ。
靴ならばナイキやクラークス。VANSも渋い。なしなのはプロケッズ。
さらに、「あり」とされるヒップホップやナイキの中にも
もう一段階「あり」と「なし」の分類がある。
ラップさえ聴いていれば間違いない、というわけではないのだ。
高校を支配するのは学力でも暴力でもなく、センスだった。



18時59分、僕たちはコーストの長テーブルを囲んでいる。
夕食の集合時刻にはどうにか間に合った。
柏さんの合図で全員が揃って「いただきます!」と野太く吠えるように挨拶すると、
クラウチング・スタートを切った短距離走者のような勢いで食事に突入する。
各々の前に置かれた皿には、体育会贔屓の店長のはからいで山盛りされた
特別メニューが湯気をたてている。
豚肉の生姜焼きを勢いよく口に放り込んで咀嚼しながら
フォークをクルクルとまわしてスパゲッティを巻きつけその先端に魚介を突き刺し、
ステーキ・ピラフをスプーンで掻き集め、
粉チーズをたっぷりかけたイタリアン・サラダを引っ掻き回し、
ライスのかたまりをングングと呑み込んで喉に快感を覚え、
馬みたいに水を飲み、またフォークを生姜焼きに突き刺す。

のんびりと会話を楽しみながら食べる、ということはない。
口からついて出る言葉といえば「うまい」「うまいな」「うんうまい」ぐらいだ。
何しろお腹が空いているから、皆夢中で食べ続ける。
出された食事を残すことなど考えられないし、許されてもいなかった。
時には激しすぎる練習で疲れ果て、食欲を失っている場合もある。
疲労困ぱいの状態で食べるレバニラ炒めなど、胃はすんなりと受け入れてはくれない。
そんな時でも、食べ物を残すことは禁じられていた。
辛くても、とにかく食べてエネルギーを貯えないことには次の練習に臨めないのだ。

再び柏さんの合図で「ごちそうさまでした!」と席を立つ。
今晩はミーティングもない。門限の20時半までは自由時間だ。
身体は疲れているけれど、今日はもう練習から解放されたのだと思うと嬉しくて
まっすぐ宿舎へ帰る気にはなれなかった。
一年生も二年生も、時間ぎりぎりまでエキウラで遊んで過ごす。
遊ぶといっても、僕たちが行く場所といえば
ゲームセンターか本屋、もしくはコンビニぐらいしかないのだけれど。



バス通りから中央通りにつながる横道には
老舗のゲームセンター「セントラル」がある。
この店は、学生たちの溜まり場だった。
19時40分。
一年生7人は横一列に並び、真剣な面持でハンドルを握っていた。
毎晩の食後のお楽しみ、レーシング・ゲーム『ファイナルラップ2』だ。
F1マシンの運転席を模して作られた7台の匡体にそれぞれが乗り込み、
同時にプレイする。
このゲームは、通信機能によって競いあうことができるのだ。
トップを争うのはいつも白井と小柴だった。
白井はゲーム好きで、家には家庭用ゲーム機とそのソフトが
山のように積み上げられていた。
負けず嫌いの小柴は、好きなものをとことん追求する癖があった。

周回遅れでよろよろと走っていたイワンの車が
急カーブを曲がりきれずスピンし、小柴の車を巻き込んだ。
「っざけんなよ!」
裏返った声で小柴が吐き捨てる。
「イワン、ナイス」
停車する小柴の車の脇を追い抜きながら、白井は画面から目をそらさずに呟いた。
「ごっ、ごめん」
くぐもった声で謝るイワンを無視して、小柴はアクセルを踏み込み、白井を追い始める。
上級者たちはブレーキとギアシフトを巧みに使いこなし、
片輪を縁石に乗り上げることでスピードを増すなど
高度なテクニックでタイムを0.1秒でも縮めようと奮闘する。
その一方、毎回ビリ争いを繰り広げるイワンと僕は
何でもない場面でハンドルを切り損ねてコースを外れ、看板に激突し、
自滅してばかりいた。

ゲームの上手下手は、絶対に勝つ(クリアする)、他人に負けたくない、という
心の熱量によって左右されるのではないだろうか。
僕の心にはそれが希薄だった。負けても特に悔しくはない。
だから、ゲーム自体にはそれほど面白みを感じなかった。
それでも毎食後このレースに加わるのは、皆とプレイするのが楽しかったからだ。
どん尻を争うのも悪くない。
少なくとも後ろで観ているよりは笑えるし、怒れるし、興奮できる。

優勝者は、ハイスコア一覧表の中に自分の名前を登録することが許された。
入力できる文字は、アルファベットで3文字までと決められている。
普通はイニシャルを残すものだが、僕たちは別の文字を選んだ。
この晩のチャンピオンは、小柴を僅差で振り切った白井だ。
白井が入力する3文字はいつも決まっていた。
「出た、"SEX"!」
「小学生かっつーの」
3位と4位でレースを終えた一太と光太郎が白井に突っ込む。
白井のサインはいつも"SEX"だった。
アルファベット3文字で思い浮かぶ言葉が他にないのだ。
笑いながら白井をからかう二人も、勝てば同じ3文字を打ち込んでいた。
それは15〜16才男子の、気の利いた、そしてありふれたジョークなのだ。
イニシャルでも"SEX"でもないのは、小柴のサイン"LSD"ぐらいのものだ。
これもまた冗談。"SEX"よりは少し大人っぽい(つもりの)冗談。
「SEXッ、SEXッ、SEXッ、SEXッ、モ〜ニカァ〜」
僕から借金をしてゲームに参加した長谷部は、大声でバカな替え歌を歌っている。
こいつはどうしてこうも元気にバカなのか。 酔っぱらってもいないのに。



7人は揃ってセントラルを出た。
コンビニで立ち読みをして、飲み物を買って、駅を抜け南側に戻る。
宿舎へ帰る前に、置いていった荷物をとるため部室に寄った。
外に干しておいた水着は風に揺れ、手にとると既に乾いていた。

僕たちは水着とタオルを抱えたまま、何となくその場に立ちつくし
眼下に広がる暗いプールサイドを見下ろした。
そこには今、誰もいない。
照明は消え、白い石でできたスタート台が闇の中に浮かんでいる。
プールは真っ黒な水をたたえて、波もなく静まり返っている。
プールサイドの石はもう熱を宿していないだろう。
草むらや木々の中から、虫の声が聴こえる。

皆黙っている。
僕は明日のまわしのことを考えていた。
明日の今頃、僕たちはどんな目にあっているのか。
まわしって、どんな内容なのか。
何時に始まって何時に終わるのか。
何とかして、今回だけは許してもらえないだろうか?
そもそも、まわしがあるという情報自体がガセネタなんじゃないか?
空しい希望にすがろうとして、すぐに諦める。
いやしかし、と思いかけ、次の瞬間にはまた諦めている。
頭の中を、とっ散らかった思考がグルグルとまわり続けていた。

4、5、6、7……
足元から、呟くように数を数える声がした。
帽子係の長谷部が地面にあぐらをかき、
全員分の水球帽を膝の上に集めて個数を数えていた。
13、14、15、16。
予備のものも含めて17、18、19、20。
全て揃っていることを確認すると、長谷部は帽子の顎ヒモを結んで束ね
うーし、と言って立ち上がる。
光太郎が振り返り、皆の顔をぐるっと見渡して
「帰るべ」
と言った。

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