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アンダーウォーター
水中を優美に泳ぎまわるように見えつつ、水面下では激烈な男の世界が繰り広げられる競技、水球。高校運動部の厳しい練習に辟易しつつも耐え、ポップ・カルチャーを全身に浴びて過ごした90年代の回想的小説。

空っぽになるのは、気持ちがよかった


登場人物


目覚まし時計が鳴る前に目がさめた。
窓の外は既に明るいけれど蝉はまだ鳴いていない。
寝転がったまま時計を見る。
アラームをセットした6時半までは、あと10分あった。
薄暗い教室は早朝から淀んだ空気に満たされている。
渦巻き型に残った蚊取線香の灰と残り香。
一定のリズムを保ちながら白井のいびきが響き、
合間々々にギロのようなイワンの歯ぎしりが挟まれる。
僕はひとつ伸びをして周りを見回す。
皆まだ眠っている。目覚めているのは僕だけのようだ。
起きあがり、布団の上にあぐらをかいて
枕元に転がっていたヘッドフォンを耳に当て
ポータブルCDプレイヤーの再生ボタンを押した。
昨晩から入りっぱなしのCDは電気グルーヴの『662BPM』だ。
この合宿中、僕は1曲目の『電気ビリビリ』を20回以上聴いていた。



合宿中、僕たちは高校校舎を宿舎として使った。
といっても、生徒が宿泊するための専用施設があるわけではない。
泊まるのは教室だ。
二年生部員9人は1年J組とK組の教室2部屋を使い、
一年生部員7人は1年H組の教室を割り当てられた。
どちらも校舎の一階に位置している。
殺風景で埃っぱい、男子校の教室。

教室には、普段生徒たちが使っている机と椅子が40数個ある。
合宿初日に一年生部員がまず行なうのは、
3つの教室内にある椅子を全て廊下へ出す、という作業だ。
それから机を教室内の窓際に集めて、隙間なく並べる。
40個以上の机が一箇所にかたまって置かれれば
それはけっこうな広さになる。
その上に、エキウラの貸し布団屋から借りてきた布団を敷く。
こうして、僕たちが一週間を過ごす居住スペースが完成する。
僕たちは机の上の布団を生活の場として自由時間を過ごし、
眠り、朝食を食べ、練習の支度をした。



CDの音量を下げて、昨晩読みかけのまま伏せておいた雑誌を手にとる。
『STUDIO VOICE』の最新号、黄色い花の写真を大きくあしらった表紙には
『ACID AGE サイケデリックからニューエイジへ』と書かれている。
アシッドはもちろん煙草にさえ手を出したことのない僕にとっても
1960年代のサイケデリック・カルチャーを俯瞰するこの特集は興味深く、
何度となく読み返していた。
記事の中に登場するキーワードを暗記する。
オレンジ・サンシャイン。
ブラザーフッド・オブ・イターナル・ラヴ。
イターナル?あ、"Eternal"か。
いっぱしのオタクを志して中学時代に読んだ
マイケル・ムアコックのファンタジー小説
『エターナル・チャンピオン』シリーズの記憶が蘇る。
"Eternal"、「永遠の」。
英語の授業では全く頭に入らない英単語が
すんなりと脳の引き出しに収納されていく。
僕はこんな風なやりかたでしか物事を覚えられないのだ。
しかし、数十年前にアメリカ西海岸で暗躍したという
麻薬配給組織やLSDの名称を覚えたところで、一体何になるというのか。
自分でも分からない。
でもその無意味な行為に僕は充実感をおぼえ、耽っていた。

きみはとってもブスだから〜、と
3曲目の『B・A・S・S』が始まったところで
僕はプレイヤーを停止し、布団の上に立ち上がった。
隣の布団で寝ている小柴をまたいで、一太の枕元にしゃがみこむ。
合宿六日目。
今朝の朝食買い出し当番は、僕と一太だ。
おい朝、と言って起こそうと、一太の顔を覗きこむ。
「うわっ」
一太は目を開けたまま眠っていた。
驚いた僕の声で目覚めた一太は
うーんと低く唸り、億劫そうな声で
「……うるせぇなヨンピル……朝?」
そう言うと、へぁ〜あ、と大きく伸びをして起きあがった。
一太と僕は机から降り、床に転がったスニーカーを足に突っかける。
一太はTシャツの中に手を突っ込んで
胸のあたりをボリボリと掻きながら、僕に訊いた。
「注文持った?」
「あるよ」
僕は、昨晩二年生の部屋をまわって書きとめた
部員それぞれの買い出し注文メモを掲げて、ヒラヒラと振った。
教室から出ようとしたところで、布団の中からくぐもった声がした。
「ヨンピル、俺アロエヨーグルト追加」
光太郎が布団の中から手を挙げて、人指し指を立てている。
「なんだ、起きてたの?」
光太郎はこちらの声には答えず、追加注文だけすると
手をぶらんと振り下ろして再び眠りについた。

一太と僕は校舎を出て銀杏並木を下り、駅を越え、
エキウラのコンビニへと向かった。
早朝の街に人通りはまだ少ない。
コンビニに入ると僕たちの他に客はおらず、
アルバイトの店員はレジカウンターの中で退屈そうにマンガ雑誌を読んでいた。
僕は持ってきた注文メモを読み上げ、
一太と手分けして品物を探し、買い物カゴに放り込む。
二年生部員9人、一年生部員7人、合計16人分のリクエスト。
全て合わせれば、結構な量だ。
「おにぎり2つ、適当に。ただし梅干はダメ。あとスポーツドリンク」
「カロリーメイト、フルーツ味。チーズ味買ってきたら坊主」
「あんパン、シーチキンマヨネーズおにぎり、鶏のからあげ、バナナ」
そういった注文に混じって
「烏龍茶、カレーパン、エロ本」
毎朝決まってエロ本をオーダーする先輩もいる。高野さんだ。
高野さんは本気でエロ本を読みたいのではない。
単に、早朝のコンビニでエロ本を買うという恥ずかしい思いを
一年生にさせたいだけ。洒落なのだ。
どの雑誌を買って来いという指示は一切ないから、
僕たちはできるだけ笑ってもらえそうな雑誌を選んだ。
「今日はこれ行っとくか」
一太は雑誌の棚から成人向けの劇画雑誌を引き抜き、かごに入れた。
表紙を飾る豊満な女性のイラストはぬめぬめとしたタッチで描かれ、
はちきれそうな肌は遠慮のないピンク色のグラデーションで塗られている。
色っぽいというよりも、どぎつい。興奮はせず、むしろ笑ってしまう。
「これ見てエロい気持ちになる人って、いるのかな」
僕がそう言うと、一太はいつもの仏頂面のまま
「バッカお前、こりゃあ土方界の少年ジャンプだよ。
 男はこういうの読んで気合い入れんだよ」
と適当なでたらめを言ってレジへと向かった。

中身が目一杯詰まったビニール袋を両手にぶらさげ、僕たちは並木道を歩く。
緩いのぼり坂が、いつもより長く感じられる。
プールの前を通り過ぎる時、僕は無意識のうちに呟いた。
「まわしってさ、」
そこまで言って口を閉ざす。
この後に何と続ければよいのか、分からなかった。
思考は宙をさまよう。
本当にやるのかな。何やるんだろう。何時間ぐらいやるんだろう。
何を言っても、何を尋ねても僕が望む答えは返ってこないだろう。
それでも僕は、何か言葉を口にすることで不安を紛らわせたかった。

今朝目が覚めた瞬間、まず頭に浮かんだのはまわしのことだった。
僕はそれについて考えないよう努めた。
本を読み、音楽を聴いて、別のことを考える。
そうして故意にそらしてきた意識の焦点が
プールを目にした途端、ピタリと合ってしまったのだ。

一太と僕は黙ったまま並木道を歩き続けた。
手に持ったビニール袋のガサガサという音ばかりが耳に響く。
坂が終わり、道が平らになって高校校舎が見えてきた時に
前を向いたまま一太が言った。
「やらされるんだから、やるだけだろ」
わずかに腹を立てたような声には乾いた諦観が混じっていたけれど
悲しさはなく、力強かった。
「うん」
くぐもった声で頷くだけの自分を情けなく思った。
そうして僕たちはまた黙り込み、校舎に入り、朝食とエロ本を届けるべく
二年生部員の教室のドアを静かにノックした。



午前の練習はいつも通り8時に始まった。
午後の練習が試合に必要な技術を培うテクニカルなメニューであるのに対して、
午前の練習は基礎的な体力を鍛えるべく、泳ぎを中心に組まれていた。
泳力とスタミナを身につけるため、ひたすら泳ぐ。
サッカー部が走り込みを行なうように、水球部は泳ぎ込みをするのだ。
僕たちはそれを「スイム練」と呼んだ。
スイム練ではゴーグルをつけて、クロールで泳ぐ。ツラ上げはしない。

水球プールの縦幅は30メートルだ。1往復で60メートル。
スイム練では、この60メートルが最小単位になる。

水に入り、まずはアップ(体慣らし)で60メートルをゆっくりと泳ぐ。
そして練習が始まる。
60メートルを30本。
120メートルを20本。
300メートルを5本。
600メートルを2本。
最後にダウン(アップ同様、筋肉をほぐすように泳ぐ)で60メートル。
それがこの日、合宿六日目の午前中のメニューだった。

スイム練は、部員ひとりひとりに設けられた
制限時間(インターバル)に従って進められる。
例えば60メートルを30本泳ぐ時、
僕の場合は初めの10本を1分15秒以内
(「1分15秒まわし」という。これは例の「まわし」とは関係ない)、
次の10本を1分5秒まわし、
ラスト10本は55秒まわしで泳がなくてはならない。
本数を重ね体力が落ちるに従って、制限時間が短くなる仕組みだ。

選手たちは、プールサイドに置かれたタイマーを常に意識して泳ぐ。
1分まわしの場合を例にとってみよう。
1本目、秒針が0を指したと同時にスタートしたら
2本目のスタートは秒針が次に0を指した時だ。
1本目が10時00分00秒にスタートしたら、
2本目は10時01分00秒にスタートしなけらばならない。
40秒で泳げば、次のスタートまで20秒間休むことができる。
50秒で泳げば、10秒しか休めない。
58秒ならば、着いて2秒後にスタートだ。
60秒なら着いたと同時にスタート。
60秒を越えた場合は、そのまま止まらずにターンして
次で取り戻せるよう全力で泳ぐ。
3本目のスタートは10時02分00秒。
1本目で70秒かかっても、2本目を40秒で泳ぎきれば
3本目のスタートまで10秒は休める。
理屈の上では。

インターバルの設定は、選手各々の泳力を鑑みて監督と主将が決める。
泳ぎが速い者ほど設定は厳しい。
60メートルのスイムで、光太郎と小柴は
初めの10本を1分まわし、次の10本を50秒まわし、
最後の10本は45秒まわしで泳いだ。
これは柏さんや針山と同タイムのメニューで、
それだけレギュラーに近いということだ。

僕のインターバルはイワンや長谷部、横井さんと同タイムで
部内で最も遅く設定されていた。
他の人と比べれば楽なはずなのだけれど
インターバルを守れるのは初めの12〜13本が限度だった。
徐々に腕が重くなる。
このままではインターバルが守れなくなる、と焦り
力をこめて水を掻くのだが、
つい先ほどのような勢いはどうやってみても生まれない。
疲労が蓄積する。
それは借金のように利子を膨らませ、減ることはない。
フォームはだらしなく崩れる。 日差しの中のアイスクリームみたいに。
気がつけば僕は、ずっと止まらずにただただ泳ぎ続けている。
自らの荒い息遣いだけが身体の中に響く。

腕をまわすこと、バタ足を打つこと、息継ぎをすること。
それだけで精一杯になっている。
僕は搾っても一滴の水も出ない雑巾だ。
僕は錆びた機械だ。ただただ泳ぎ続ける重い物体だ。
思考は凪の時を迎える。

腕が重い、腕が重い、腕が重い……
醜い軌道を描いてもがき続ける僕の身体が鉛なら、
離れたコースで僕の何周も先を行く光太郎の泳ぎはまるでイルカだ。
いきいきとしていて、力強く、本数を重ねてもしぶとく崩れない。
俺は筋肉が柔らかいから長距離向きなんだよ。
中学水泳部時代、光太郎はたしかそう言っていた。
競泳の大会では100メートルから1500メートルまで、いくつもの種目に出場した。
光太郎は水に愛されている。そんな風にすら見えた。
もちろん練習は苦しいだろう。
しかし彼は、苦しい時のしのぎ方を知っている。
無駄のないフォームを維持して確実に進む光太郎を見ていると、
ああ、水球というのは彼のような人間のためにある競技なんだな、と納得してしまう。
僕のためにはない。なくていい。
僕が満足するのは、水の中でではないのだ。

同じペースで後をついてきたイワンが、僕の横を抜いていく。
イワンのフォームから、いつもの丁寧さが消えていた。
グチャグチャの、ひどい泳ぎ方だ。
それに追い抜かれる僕のフォームは一体どれほど乱れているのだろう。
ぼんやりとした頭に突然、今朝覚えたばかりの単語が蘇える。
オレンジ・サンシャイン。ブラザーフッド・オブ・イターナル・ラヴ。
ティモシー・リアリー。メリー・プランクスターズ。
消えないように何度もなぞる。
それは呪文だった。何も起こらない、自分だけの呪文。

メニューを全て消化してプールサイドに腰掛けた時、
僕はいつも通り空っぽだった。
空っぽになるのは、気持ちよかった。

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