ホームホームマガジン > 斎藤哲也/不思議のフシギ > 二種類の「思い出す」

不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

二種類の「思い出す」


 昨日のお昼は何を食べた?

 こんな他愛のない質問を受けて、僕らの頭は昨日のランチの状況を思い出そうとする。そうそう、昨日は喫茶店でパスタを食べたんだっけと思い出す。

 しかし、「10日前の夕飯は何を食べた?」と尋ねられたら、思い出すのはとても難しい。人によって、思い出し方は違うだろう。ある人は、昨日、一昨日、三日前……というふうに、順番に記憶をさかのぼろうとするかもしれない。

 あるいは、10日前の別の出来事を思い出し、そこから連想ゲームのようにあれこれと思いだそうとする人もいるだろう。

「思い出す」ことには、二つの回路があるような気がする。

 ひとつは、いま例に挙げたように、能動的に思い出すことがある。記憶の糸をたぐって、おもちゃ箱の中からお目当ての玩具を見つけるように、何かを思い出す。

 ド忘れした誰かの名前なんてのも典型的だ。その人の顔も思い浮かべられるし、職業もわかっている。なのに、名前だけが思い出せない。うーんと周辺の記憶を探って、なんとか名前にたどりつく。

 もうひとつは、何かを見たり聞いたり、匂いをかいだり味わったりしたことをきっかけに、ふと思い出すこと。とても受動的な「思い出す」だ。

 特段、積極的に思い出そうとしているわけじゃない。でも、何かを目にしたり聞いたりした拍子に、向こう側から「思い出」がやってくることってありません?

 何年か前に訪れた土地に、もう一度、足を運ぶ。そのときに、見えているのは「現在」の風景なのに、同時に過去の情景や心情などが去来する。

 現在のなかに、過去は畳みこまれていて、そんな記憶は自分の意思とは無関係に、ふと訪れてしまう。

 ちょっと脱線させてもらおう。

 古文の助動詞の「る」「らる」には、受身、可能、尊敬という意味のほかに、自発という意味がある。この「自発」は、僕らが日常的に使う「自発的」とは意味が違い、現代語では「自然に……れる」「ふと……れる」と訳す。

「自然発生」みたいなニュアンスといえばいいだろうか。要するに、意志は介在せずに、心にふとやってきてしまうようなときに、自発の「る・らる」は用いられる。

 たとえば、徒然草にこんな一節がある。

「花橘は名にこそ負へれ、梅の匂ひにぞ古(いにしへ)のこともたちかへり恋しう思ひ出でらるる」(花橘の香は昔を思い出す代名詞として有名だが、やはり梅の花の匂いにこそ、昔のことが頭によみがえって、恋しく思い出されるものである)

 この「思ひ出でらるる」の「らるる」が「自発」と呼ばれる用法だ。つまり、梅の花の匂いをかいだことで、かつてのあれこれをふと思い出してしまう。

 話を戻そう。「思い出す」ことの二つ目のほうは、この「自発」の「る・らる」に近いんでないだろうか。

 街角でふと耳にする1曲は「あのころ」を思い出させるチカラをもっている。「サザンオールスターズにぞたちかへり恋しう思ひ出でらるる」なんて人は、僕も含めてとっても多いはずだ。

 二つの「思い出す」の違いは、積極的か、ふとやってきてしまうものか、という違いにとどまらない。

 (ひとつめの)積極的に何かを思い出すことは、思い出す目的に奉仕するために、どうしても目的-手段の回路にからめとられがちだ。だから「気持ち」を引き連れづらい。別に、名前や昼ごはんを思い出せたからって、せつなくなったり、ぐっと来たりはしないし。

 一方、何かの拍子に思い出すことは、手段-目的の連鎖から解放されている。そして、そこで思い出されるものは、決して単なるシーンだけじゃなく、当時の「思い」が折り重なっている。

 もちろん時を経ることで、記憶は変形もされるだろう。あるいは捏造すらされることもある。でも別に、それでいいんじゃないかと僕は思うのだ。

 確かめる術はない以上、現在にしのびこんでくる過去の思いは、記憶が変形されようが捏造されようが、「過去の思い」として認めあげていい。そして、そんな思い出は、いつだって知覚とキモチが混然一体となっている。

 さて、ここでお立会いだ。

 たまたま放送大学の教材として売られている『世界の名作を読む』というテキストを読んでいたら、プルーストの『失われた時を求めて』を解説したこんな文章と遭遇して、僕はびっくりしてしまった。ちっと長いけど、引用させてほしい。

〈プルーストによれば記憶には二つの種類がある。一方は「知性の記憶」、もう一方は「無意志的な記憶」。たとえば古いアルバムを見て、おぼろげな記憶を辿りながら、そこに写っている人たちが誰なのか、いつ頃、どんな状況で撮った写真だろうか、などと頭をひねって考える。これは「意志的な記憶」そして「知性の記憶」だが、一方の「無意志的な記憶」というのは、その名の通り、わたしたちの「意志」とは無関係に、むこうからやってくる不意打ちのように私たちを襲う記憶である〉

〈理詰めで努力すれば思い出せる「知性の記憶」は、過去の時間をいわば死んでしまったものとして羅列し、反芻しているにすぎない。何かを思い出したという満足感はあるかもしれないが、それ自体は、つまり記憶のメカニズムとしては、不毛で、何の喜びをもたらさない。これに対して「無意志的な記憶」こそが、過去の時間を蘇らせる魔力を持っているのだが、そこでは「知性」ではなく、「感覚」が、たとえば聴覚や、触覚や、そして味覚などの、どちらかというと曖昧な感覚が、きっかけを与えてくれる〉

 プルーストさん、あなたも同じことを考えてたんですな(不遜)。僕はこの一節を読んで、あまりにも嬉しくなってしまったので、死ぬまでに『失われた時を求めて』完読を心に誓ったのだ。

 自分の意志ではどうしようもない記憶の訪れ。探しても決して見つからないのに、あるときふと見つかってしまう宝物みたいで、なんだかワクワクしてこないだろうか。宝物のような思い出とは、そういうことなのだと思う。

  • 前回の記事
  • この連載のトップ
  • 次回の記事

▲新着順▲著者順