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不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

今はまだ変化を語らず


オバマ大統領が口酸っぱく“change”と唱えたせいもあって、世の中は「変われ」の大合唱だ。そして、僕のにらむところでは、「変わること」「変化すること」は、現代のもっとも強固なイデオロギーとして機能しているような気がしてならない。

「日々刻々と変化する環境に適応するために、お前も変わらねばならない」

はい。おっしゃるとおり。

でも、おずおずと口を挟みたい。変わることばかりに気を取られて、大事なことを忘れてはいませんか?

ここで、(きわめて唐突ながら)腕とマッチ箱の違いについて、考えよう。この話題に関して、哲学者・野矢茂樹さんは、『哲学・航海日誌』のなかで興味深い議論を展開している。

まず、次の説は正しいかどうか、自分に問いかけてみてほしい。

「私の身体は私の意志に従う。しかし自分の身体以外の物体はそうではない」

簡単にいえば、「自分の腕は自分の意志で動かせるけど、マッチ箱は自分の意志では動かせない」ということだ。

さあ、はたしてイエスかノーか。

野矢さんは、アンスコムという哲学者の議論を引きながら、この説に、きっぱりとノーと答える。少し長いが引用してみよう。

〈意志することが何かを念じることだとするならば、もちろん、念力でもないかぎり「マッチ箱を動かそう」と念じただけでマッチ箱は動きはしない。しかし、まったく同様に、腕を見つめて「腕よ動け!」といくら念じても、私の腕はぴくりとも動かないのである。他方、実際に腕を動かしてみせるというのならば、私はマッチ箱のことも動かしてみせる。机の右? よろしい。左? 雑作もない。マッチ箱はまさに私の「意のままに」動くのである〉

とどのつまり、「意のままになる」という観点から見たときに、腕(=身体)とマッチ箱(=物体)は「実はいささかも違いはしないのである」。

ここからがお立会い。

では、身体と物体を分けるものは何か? 身体の独自性とは何なのか?

野矢さんの答えは

〈身体の独自性は、なによりもまずそれが意図的行為において透明であるという点に存している〉

というもの。

たとえば、マッチ箱を動かそうと意図的に行為する場合を考えよう。そのとき、僕たちの意識はマッチ箱に向かっていて、腕や手の動きといった身体は意識されずに「透明化」する。この対比(=行為における意識化の有無)が、野矢さんのいうマッチ箱と身体の身分の違いに当たる。

逆に、身体の「透明化」が破られるときもある。

野矢さんが挙げるのは、リハビリテーションなどで、意識的に手足を動かそうとする局面。ここでは、身体は、マッチ箱と同じように“意識を向ける対象”になっており、身体の「透明化」は破られている。

説明されてしまえば、じつに当たり前の話だ。でも、この「透明化」という考え方は、哲学の専門的な議論を離れて、多くのことを示唆してくれるように僕には思えるのだ。

考えてもみてほしい。めまぐるしく環境が変化しているといっても、僕らは、生活の圧倒的な部分を「変わらない」ことをアテにして生きている。

夜、寝室で、布団にもぐって寝る。そして翌朝、目覚めたときも同じ寝室にいることは、ごくごく当然であって、そのことを人はことさらに意識したりはしないだろう。

出社の途中に歩く道は、昨日も同じように通った道で、会社にいけば同僚が隣の席にいて、昨日と同じように「おはよう」と声をかけあう。

目の前のパソコンは襲ってきたりしないし、マグカップに入っているコーヒーが、いつのまにかコーラに変わったりはしない。

会話だって同じこと。時に意見のすれ違いや誤解はあろうとも、相手に言葉が通じることは、わざわざ意識せずとも自明であるからこそ、僕は気軽に友人や知人と言葉を交わせるのだ。

コムズカシイ理屈をこねて、「人はしょせんわかりあえないんだよ」とか「コミュニケーションは不可能なんだ」とか、したり顔で言う人々ですら、自分が発している当のメッセージは、目の前の相手に理解してもらえることを大いにアテにしている。

この圧倒的な透明性、自明性をアテにしているからこそ、人は変化や変革をも望むことができることを忘れてはならない。

オバマ大統領だって、明日も大統領でいることを自明視しているから、“change”と叫べるのだ。大統領のポジションまで“change”したら、たまらんだろう。

むろん、透明性が破られることだって、頻繁にある。そして、透明性の破れによって、人は悩んだり迷ったりもする現実がたしかにある。

だから、誤解のないようにいっておくが、僕は「変わらないことはよいことだ」と言っているわけではないし、「変わることは悪いことだ」と言いたいのでもない。

ただ、僕らの日々の生活に、さまざまな「意識しないですむこと」「変わらないこと」が透明膜のように貼り付いていることは疑いようがなく、そうした生のインフラがあって、初めて人は、生活上の「変化」も実現できるのだと思う。

ふぅ。ほんとに当たり前すぎることを書き連ねてしまった……。でも、「変化」万歳なご時世ゆえ、このあまりに当たり前なことを、あらためて確認したいと思った次第なのです。

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