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不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

困難は共有せよ


 毎年、秋も深まるころになると、文房具店や書店では手帳コーナーが大々的に設置される。そこには高橋書店や日本能率協会といったビジネスマン向けの定番手帳は言わずもがな、最近は著名な文化人や有名人がプロデュースする手帳も急増し、じつに色とりどりの手帳がところ狭しと賑わっている。

 手帳売り場の活況は、手帳術本の氾濫とも無関係ではあるまい。

 じつは僕は、2003年ごろに手帳術本をあさって、「究極の手帳術を求めて」と題した原稿を書いたことがある。

 当時も「ほぼ日手帳」、野口悠紀雄の「『超』整理手帳」、「日野原重明 生き方上手手帳」などユニークな手帳が現れ始めてはいたが、手帳活用を説いたノウハウ本は現在ほどの存在感を示してはいなかった。

 おそらく手帳活用術シーンが盛り上がりを見せ始めたのは、04、05年あたりからだろう。『夢に日付を!――夢実現の手帳術』(渡邉 美樹)と『一冊の手帳で夢は必ずかなう』(熊谷正寿)という、著名経営者の手帳術本2冊がバカ売れしたのがその頃だ。

 手帳術と経営(=マネジメント)との相性のよさは、いまさら指摘するまでもない。長期的な目標→中期的な目標→短期的な目標というぐあいに、夢や目標を細かく分割して、現在の「するべきこと=ノルマ」に落としこんでゆく。

 こうした手帳活用術の本を読んでいて思い出すのが、デカルトの『方法序説』だ。この本のなかでデカルトは、理性を正しく用いるため規則として四つの規則を挙げているが、注目したいのは次の二つの規則。

・わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

・わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。

 簡潔にいうならば、「難問は分割せよ」「順序だてて、単純なものから複雑なものに到達せよ」というわけで、これはまさしく手帳活用術の思想まんまではないか。さすがデカルト、近代哲学の祖はとっくの昔に、ビジネスの肝まで見抜いていたのである。

 目標や困難を分割して、順序だてることの有効性は疑うべくもない。

 ある曲をコピーしたい。でもすごく難しい。そんなとき、どうしても躓いてしまう数小節を集中的に練習する。これも「難問は分割せよ」の実践だ。

 思えば、学校の学習カリキュラムなんて「順序だてて、単純なものから複雑なものに到達せよ」を体現したものだろう。

 しかし、人が生きることのなかには、分割しようのない困難というものがある。

 身近な者の死、親愛なる人との別れ、仕事や恋愛での絶望……、その場でうずくまってしまうような困難の前では、効率性を最善とするデカルト的手帳術は無力だ。

 一人芝居のイッセー尾形の演出家である森田雄三さんが『イッセー尾形の人生コーチング』という本のなかで面白いことを言っている。

〈「困った状態を、個人で背負い込む。悩みを誰にも言えないとなると、これは孤独をこじらせて、辛いだけだよね。でも、辛さを共有することができると違ってくる」

「困ったことや辛いことを共有することができると、これは喜びになるんだよね」〉

 困難を分割するのではなく、共有する。難しいことは何も言っていない。友人に悩みを打ち明けることで、肩の荷がおりた経験は多くの人が持っていることだろう。

 だが、同時に思う。自殺者が年間に3万人を超える日本という国では、困難の共有が著しく難しくなっているんじゃないかと。

 たしかに、対人関係スキルやコミュニケーション能力のアップを図る本はちまたにあふれている。でもそこで言われるコミュニケーション能力は、もっぱら個人なり集団なりが成功を収めるためのものだ。コミュニケーションが「能力」や「スキル」として語られてしまうとたんに、それは「成功のための手段」とならざるをえない。

 思想史家の市村弘正氏は、「『失敗』の意味」と題した随想(『「名づけ」の精神史』所収)のなかで次のように綴っている。

〈安楽と効率を指向し、そのための計画とプログラムによって覆いつくされた社会生活においては、そのプランの実現を阻み害すると考えられる事態は極力、遠ざけられ回避されなければならない。そういう事態を招いてしまった者やその渦中で苦しむ者は、プログラムに対する見通しの甘さと計算能力の不足を示すにすぎないのであって、まさに社会の「落ちこぼれ」として片付けられざるをえない〉

 にっちもさっちもいかない困難を抱えることが「見通しの甘さや計算能力の不足を示すにすぎない」のであれば、さきほどの森田さんがいうように「孤独をこじらせて、辛いだけ」になるのは当たり前だ。

 先の市村さんの文章はこう続いている。

〈ここでは、人間の生きる世界が本来、「思いがけない」出来事や「思いもよらない」物事を含み、「思いどおりにならない」存在を組みこむものであることが根底的に否定されてしまう。したがってまた、自分の予測や目論見や統制の能力を超えた、未知の出来事によって挫かれ、驚きとともにその事態を受けいれること、すなわち失敗が社会的に成立しえないのである〉

 手帳に書き込まれる内容は、総じて「予測可能」なものであり、「思いがけない」出来事や「思いもよらない」物事が存在する余地はない。手帳術の氾濫と、失敗免疫の低下をパラレルに捉えるのは考えすぎだろうか。

 失敗免疫の低下とは、失敗を受けいれる側が寛容かどうかという問題だけではない。いや、それをいうなら、他者の役に立つとか貢献するとかいう言説だって、あふれている。

 むしろ問題は、SOSを発信するという発想すら枯渇した状況になってしまっていることにある。「他人の役に立て」という言葉の流通に比して、「困ったときはSOSを発信しよう」という言葉は驚くほど少ない。

 ちなみに、僕自身もおそらく困りベタな部類だ。SOSを発信するぐらないなら、自分で処理してしまおうとする傾向が強いような気がする。でも、誰かに言えたら楽だろうなと思うこともしばしばだ。いつか上手に困ることができる日は来るだろうか。

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