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アンダーウォーター
水中を優美に泳ぎまわるように見えつつ、水面下では激烈な男の世界が繰り広げられる競技、水球。高校運動部の厳しい練習に辟易しつつも耐え、ポップ・カルチャーを全身に浴びて過ごした90年代の回想的小説。

ピィッ! 夜空に鋭く笛が響いた


11本目の潜水で、とうとう息がもたなくなった。
もう少しでプールの端まで辿り着く、水から顔を出せる、
そう思った瞬間に限界が訪れた。
喉の奥から何か大きなものがこみ上げてきて、意志とは関係なく口が開く。
ゴボッ……肺の中に残っていたわずかな空気が弱々しい音とともに吐き出され、
入れ替わりに水が口の中へと流れ込んできた。
僕はとっさに口を閉じ、水を全て飲み下す。
喉の中を水が滑り落ちていく冷たい感覚に続いて、
肺が縮んでそのまま潰れていくような苦しみが走った。
ヤバいヤバいヤバい、空気空気空気空気を!
水球用プールは深い。急浮上するためにプールの底を蹴った。
いや、蹴ろうとした。
慌てていた僕は力を入れる角度を誤って足を滑らせ、水中で体勢を崩し、
へっぴり腰のままプールの底で停止する。その間約1秒。
空気を完全に吐き出してしまった身体は、わずかな間にも加速度的に力を失っていく。
脳が白く濁り始める。
最小限の動きで体勢を立て直し、もう一度プールの底を思い切り蹴った。
太ももにためた力がふくらはぎを伝わって、余すことなく爪先から放たれ
固い固いプールの底を蹴り飛ばした。今度は成功した。
身体は水面に向かってほぼ垂直に浮かんでいく。
すかさずバタ足を打ち、しゃにむに腕を掻き、なりふり構わない無茶苦茶なフォームで
上へ、上へと進む。早く早く早く、水の外へ。空気に満たされた世界へ。
水面が目の前に迫る。一刻も早く、口だけでも水から出そうと、上を向いた。
見上げた視線の先に、水面の向こう側から差す白く強い光が眩しかった。



照明灯に照らされて、水球用プールは真昼のように明るかった。
すぐ隣の50メートルプール、それを見下ろす大学の研究棟、
研究棟を隔てた向こうに広がる陸上競技場、
それら全てを含む大学キャンパス全体が夜の闇に包まれ沈黙する中で、
水球用プールとそのプールサイドだけが不自然に明るく浮かび上がっている。
水面は激しく波打ち、照明の光を反射させてキラキラと輝く。
やっとの思いでプールの端に浮かび上がった僕は
水面から顔を出すと同時に空気を吸い、すぐに吐き、
今度は肺をいっぱいに膨らますようにしてゆっくりと吸った。
吸いすぎて喉が喘息のような音をたてる。構わず吸って吐く。
全身に空気が行き渡るのが分かる。まだだ。まだ足りない。
次の笛が吹かれるまでの間に(あと10秒?5秒?)
できるだけ息を吸って、吐いて、呼吸を整えなくては。

笛があと何回吹かれるのか、僕たちはあと何本泳ぐことになるのか、
それは全く分からない。なにしろこれは練習ではない。まわしなのだ。
今はただ息を整えることだけを考えよう、と大きく息を吸おうとしたその時
僕のすぐわきの水面に猛烈な勢いでイワンが浮かび上がってきた。
激しい飛沫があがり、高い波が揺れる。
僕はその波をもろにかぶって水を思い切り飲み、混乱して、
吐き出すべきところをさらにまた吸ってしまった。
ゲーッ、ゲホゲホッ!
僕はプールの縁につかまり、肩まで水に浸かった姿勢のまま激しく咳きこんだ。
飲み込んだ水を必死に吐き出す。
プールの水と、吐き出した水と、よだれと、涙と、鼻水と、
色々なものが混じり合って僕の顔はぐちゃぐちゃに濡れている。
鼻の下のねばねばした何かを手で拭い、プールサイドに向けて振りはらう。
飲み込んだ水を全て出してしまうと、口の中に何か硬いものが当たることに気づいた。
舌で押し出してペッと吐き出す。
出てきたのは、死んで硬直し脚を丸めたカナブンだった。

僕たちの頭上で強力な光を放つ照明灯の周囲には、
数えきれないほど沢山の虫たちが飛び交っていた。
夏の夜、緑の多い屋外で明かりを灯せば虫が集まってくるのは当然だ。
問題なのは、その下にプールがあることだった。
体長わずか数ミリの羽虫、大小様々な大きさの蛾、カナブンやその他の甲虫、
おかしな時間に目を覚ましてしまった気の毒な蝉。
彼らは自然の摂理に導かれ、煌々と照る照明灯の元へと集まり、
熱すぎる光源に接近してあっけなく死ぬ。
そして彼らの亡骸は音もなくプールへと落下するのだ。

今夜、水面には既におびただしい数の虫の死骸が浮かんでいた。
照明灯を点けさえしなければ、ここまで沢山の虫が集まることはないし
波に揺られたその死骸が僕たちの口の中に入ることもなかったはずだ。
まわしが始まって、一体どれぐらいの時間が経ったのだろう。
30分ぐらいだろうか。45分?意外とまだ20分程度しか経っていないのかもしれない。
見当がつかなかった。
照明灯が光を放ち始めてから経過した時間に比例して、水面には虫が増えていく。



プールサイドでは二年生部員が思い思いの格好でだべっている。
部室から運んできたパイプ椅子に腰掛け、またがり、ふんぞり返り、
ある者はプールの横幅20メートルを必死の形相で泳ぐ一年生を見物し、
ある者は会話を交わし冗談を言いあって笑い声をあげ、
ある者は赤鉛筆片手にスポーツ新聞の競馬欄を広げ、
ある者は前屈みになって週刊誌を読み、声を出してあくびをもらす。
まわしが始まって間もない時間帯には皆プールを睨みつけ
喘ぎながらプールの縁につかまる一年生に向かって
「オラ、声出てねえぞ!」
「そんなんじゃ朝まで終わらねえぞ」
と楽しそうに怒鳴っていた。
しかしまわしは単調で、ただ観る者にとってはそれほど刺激的な祭とはいえない。
参加者にとっては地獄。観る者にとっては退屈。
最も楽しいのは、笛を吹いて一年生を動かす役割だ。

プールサイドに立っているのは、腕組みをしてプールの縁にたたずむ柏さんと
その隣で笛をくわえている横井さんの二人だけだ。
まわしは笛によってコントロールされる。
スタートのタイミング、20メートルを泳ぎきり次のスタートまでどれだけ休めるか、
そういった一切は笛を吹く人間の塩梅次第で早くも遅くもなる。
延々と泳がされる僕たちにとって、笛の吹かれ方は重要な問題だ。
一年生に対して最も甘い横井さんに笛を任せたのは
主将である柏さんの温情なのだろう。

僕の隣ではイワンがプールの縁につかまり、ゼイゼイと息をきらしている。
連続の潜水がこたえているのだろう。
「おい……大丈夫?」
僕が小声で話しかけると、イワンはざらついた声で搾り出すように
「ダイブ何本目だっけ」
と訊いてきた。水球部では潜水のことをダイブと呼ぶ。
11本やった、と答えようとしたその時、プールサイドに立つ横井さんが声をあげた。
「はい、ダイブ!」
「ウェェイ!」
僕たちはすかさず声を張り上げる。
返事が少しでも遅れれば「お前ら気合が入ってねえんだよ」と文句をつけられて
まわしを延長する理由を与えることになる。もっとも、素早く返事をしたからといって
この過酷な時間が短縮されるとも思えないのだが。
僕はイワンに小声で「12本目」と言った。



ピィッ! 夜空に鋭く笛が響いた。
僕たちは息を吸いこみ、壁を蹴って飛び出し、音もなく水中を進む。
プールの横幅20メートルを、潜ったままで泳ぎきらなければならない。
浅すぎれば途中で身体が浮いてしまう。
深く潜りすぎると、潜ったり浮いたりに時間をとられて空気がもたない。
肝心なのは、正しいルートを見極めることだ。
進むべき道は身体が感覚的に覚えている。不安や焦りで感覚を狂わせてはならない。

肺の中は夏の夜のぬるい空気で満たされている。
今度は大丈夫だ。冷静に。息を吐くペースを計算して、冷静に。
僕は心を無にしてただ腕を掻き、キックを打つ。
上目遣いで頭上の水面を見上げると、油蝉の死骸が浮いているのが見えた。
よし、僕は今落ち着いている。今回は大丈夫だ。
自分にそう言い聞かせて、進むべきルートを進む。正面の壁が徐々に近づいてきた。

12本目は水を飲むことも、むせることもなく泳ぎきれた。
大きく呼吸をしながらあたりを見回すと
長谷部がプールの縁につかまって、深刻な顔つきで小刻みに震えていた。
隣の光太郎が小声で話しかける。
「バカ、どうした」
長谷部はいつになく弱々しい声で答える。
「ションベン」
「あ?」
「我慢できね」
今はまわしの最中だ。
二年生に向かって挙手をして「トイレへ行かせてください」なんて言うだけ無駄だし、
許しを得ずにプールから上がったりすればその後どんなことになるか、
だいたいのところ想像はつく。そして実際は想像以上だろう。
だから選択肢はひとつしかない。光太郎は長谷部に向かって分かりきったことを言った。
「しょうがねえ、やれよ水の中で」
「それしかないよね」
長谷部は少し嬉しそうに囁く。
水の下で何が起こっているのかなんて、水の上からいくら見てもわかりはしない。
可及的速やかにことを済ませて、何食わぬ顔をしていればいい。
光太郎は眉をしかめて長谷部に言う。
「次の笛が鳴ったら俺が先に出るから、お前は俺の後ろを泳ぎながら……」
「フフフ」
「何笑ってんだよ」
「フフ……わりい」
「おい。おいバカまさか」
「もう全部出た」
光太郎と僕はザリガニのような瞬発力で後ろへ飛び退き、長谷部から遠ざかった。
押し殺した声で光太郎が言う。
「水ごと全部飲めバカ」
長谷部は気持ちよさそうに
「やべ、なんかあったけえ」
と呟いて、また笑った。
向こう岸で横井さんが声を張る。
「はいダイブ!」
「ウェェェイ!!」
長谷部の声は心持ち元気そうだ。光太郎も、つられて少し笑った。

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