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アンダーウォーター
水中を優美に泳ぎまわるように見えつつ、水面下では激烈な男の世界が繰り広げられる競技、水球。高校運動部の厳しい練習に辟易しつつも耐え、ポップ・カルチャーを全身に浴びて過ごした90年代の回想的小説。

少なくともまだ死んではいない


プールの縁につかまって次の笛を待ちながら、ぼんやりと水面を見ていた。
肩まで水につかった僕の目の前数センチのあたりには油蝉が浮いている。
さきほどの潜水中に水中から見上げた死骸が流れてきたのだろうか。
それともまた別の死骸だろうか。
蝉は上下する水面に揺られ、大きな波に呑まれて沈み、
そしてまたゆっくりと浮かび上がる。
みつめる僕の目はぼうっとした熱を帯びて鈍く淀んでいる。

僕たちは照明灯に照らされた夜のプールで、もがくようにして泳ぎ続けている。
まわされている。
まわしが始まってから何分経ったか分からない。いつまで続くのかも分からない。
これは練習ではない。しごきのためのしごき、まわしだ。
一年生が一年生であることの意味を思い知るための、理不尽な儀式。
内容も、時間も、全て二年生の気分次第で決まる。
いつ終わるのかなんて、まわされる側の一年生には分からないし
まわす側の二年生にだって分かっているのかどうか怪しいものだ。

ピィッ!
笛と同時に壁を蹴る。派手な飛沫を上げて水の中を掻き進む。
いつ果てるともなく続いたダイブは16本で終わり、
僕たちは今、ツラ上げのダッシュを繰り返している。
二年生はダイブを見飽きたのだろう。ツラ上げは新しい見世物というわけだ。
彼らがツラ上げを観るのに飽きれば、僕たちはまた次のメニューを言い渡される。
それに飽きたらまた次のメニュー。また次のメニュー。また次の。

どれだけ泳げば終わるのだろう。僕が知りたいのはそれだけだった。
何をやるのか、よりも、どれだけやるのか。内容よりも量を知りたい。
辛いのは、ゴールが見えないからだ。
まわしのゴールはどこにあるのか。いつになれば辿りつけるのか。
果たして本当に辿りつける距離なのか。そもそも、ゴールなどあるのだろうか。
まわされている僕たちに知る術はない。

冷静になって考えれば、終わりはあるに決まっているし
いつかはゴールに辿り着くとわかる。
けれども既に僕の身体はくたびれ果て、頭はまともに働かなくなっていた。
何を何本泳いだのか、その記憶さえも曖昧だ。
かろうじて覚えているのは、まわしが始まるよりも前の出来事。
夕食後に過ごした居心地悪い時間の記憶が
喉に刺さった魚の小骨のように脳裏に引っかかり、僕の中の何かを奪っていく。



壁に掛けられた丸時計の針は19時半を指していた。
安川監督と部員16人、総勢17人の水球部は
駅裏のレストラン、コーストで合宿最後の夕食を食べていた。
いつも通り、尋常でない量の料理を、尋常ではないスピードで口へ運ぶ。
この部活においては何事であれ、遅いことは罪なのだ。

頃合を見計らって主将の柏さんが立ち上がり、部員たちのテーブルを見渡す。
ごはんつぶ一粒、添え物のパセリに至るまで全員が何ひとつ残すことなく
全ての料理を平らげたのを確かめると、柏さんは椅子に腰をおろして号令をかけた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした!!!」
全員が声を揃えて挨拶をする。
間髪入れずに柏さんは立ち上がり、そして言った。
「それから」
それから?
席を立ちかけた皆の動きが止まる。
「30分後、部室に全員集合。ミーティングやるから。一年は水着持ってくるように」
「うぇぇぇい!」
「しトゥ!」
待ってましたとばかりに二年生部員から歓声があがる。
僕たち一年生部員は、弱々しく返事をするのが精一杯だった。

「一年は水着を持ってきて」とはつまり、刑の宣告だ。
僕たちはこれからまわされることになった。
予想していたこととはいえ、残酷な祭りの現実を突きつけられて
生け贄たちは意気消沈した。来るべきものが来た。抵抗は無駄。
小柴と白井の顔からは表情が消えている。
バカの長谷部さえも沈黙した。珍しく。
イワンは白い肌をさらに蒼白にして、頭がクラクラとしているのだろう、
倒れそうなのをやっとの思いで堪えている様子だ。僕も同じだからよく分かる。
ことさら落ち込むこともなく、黙々と席を立つのは一太と光太郎だ。
早い時点で腹をくくっていたのだろう。

二年生たちはまるでサプライズ・パーティの首謀者のように沸き立ち、
これから始まる祭りに思いを馳せ、冗談を言ったり、笑ったりしている。
どいつもこいつも楽しげな声を出しやがって。
店から出たところにトラックでも突っ込んできて
二年生を二、三人轢いてくれないものだろうか。
おい誰か救急車!ミーティング?今はそれどころじゃないだろう!
僕は起こり得ないハッピーエンドを夢想し、現実から目をそむけようと試みた。

合宿最後の晩、という名目で行われたミーティングは、15分ほどで終わった。
今日の練習の反省点。新たな課題。一週間にわたる合宿の総評。
監督や主将の話に逐一「ハイ!」「しトゥ!」と答えながら、
しかし僕が(おそらく皆が)頭の中で考えていたのは
これまでのことではなく、これからすぐ後のことだった。
「まわし」という単語は、まだ誰の口からも発されていない。
もしかしたら、このまま無事に終われるのではないか。
二年生は、僕たちを脅してみせただけなんじゃないか。冗談で。
神妙な表情で主将の話を聞きながら、僕は祈るようにして
ただただ時間が過ぎるのを待っていた。

安川監督が話を結ぶ。
「じゃ、明日の午前練も最後まで集中していこう。気を抜かないように」
「しトゥ!」
ミーティングは終わった。一刻も早く部室を出て校舎へ帰りたい。
聞きたくない言葉を聞く前に。しかし、動けなかった。
監督が主将の柏さんをちらりと見る。
監督の視線を受けた柏さんは、副将の針山の方を向いて言った。
「ハリ、最後に何か一言」
針山は満面の笑みを浮かべ
「一年、着替えてプールサイド集合」
と言った。

刑の執行を目前に控えた受刑者のような気分で
うつむきがちに更衣室へ向かう僕たちの背中に、針山の声が突き刺さる。
「お前ら、旗と笛持ってくんの忘れんなよ」
忘れたらどうなるんですか。僕は心の中で呟く。
絶望と同じぐらい怒りを感じていた。僕はまだ元気だったのだろう。

更衣室に下駄箱はない。
土足で入り、自分のロッカーの前で靴を脱ぎ、
脱いだ靴はロッカーの上に置いておく。
裸足になった足の裏に、コンクリートの床がいつもよりも冷たく感じるのは
夜のせいだろうか。
道具係の小柴がロッカーの鍵を開け、中から審判用の旗と笛を取り出す。
「ストップウォッチも持ってっとけよ」
と光太郎が言う。
普段の練習では試合を進める道具として使う旗や笛、それにストップウォッチが
今はまるで刑具のように見える。
「ギャング映画でさ」
ズボンとパンツを一緒に下ろし、素早く水着に穿き替えながら小柴が言う。
遅いことは罪。
「裏切り者がマフィアに捕まって、人気のない森の奥に連れていかれんだよ。
 で、マフィアからスコップを渡されて地面に穴を掘るわけ。
 自分が埋まるための穴な。ギャングに殺された後、自分が放り込まれるための穴。
 そのスコップだな、これは」
そう言って、ロッカーから取り出した旗を軽く振ってみせた。
着替え終わった白井はつまらなそうにため息をつき、
重い身体を揺らして更衣室を出て行く。一太は口元を歪ませて
「お前、余裕あんな」
と薄く笑った。つられて長谷部が
「小柴マジ余裕じゃ〜ん」と明るい声を出すと、光太郎が
「くだらねえこと言ってんじゃねえよ。おら、行くぞ」
とマサカリのように話をぶった切り、強制終了させて更衣室を出て行った。
「なんだよ、うまいこと言ったと思ったのに。なあ?ヨンピル」
小柴がロッカーに鍵をかけながら言う。
「小柴さあ、ほんと余裕あるね」
僕はそう返すのが精一杯だった。
イワンは無言でため息をつく。
外へ出た。夜のプールサイドは闇に包まれている。
水球用プールだけが、照明に照らされて光っていた。その明るさが憎らしい。
照明灯の下には、既に二年生たちが集まっている。
どいつもこいつもくたばりやがれ……。
暗い階段の下で光太郎がこちらを振り向き
「走れ!」
と怒鳴った。



かくして、昨日の昼に光太郎が呟いた不吉な予言は現実のものとなった。
そして今僕たちはその真っ只中にいる。
水球部に入部して以来、不吉な噂や嫌な予感が当たらなかったためしがない。
まったく。
物事は常に想像よりもさらにひどい形をとって、僕たちの身にふりかかる。
だから僕はいつも精神的に受身の体勢をとっていた。倒れても怪我をしないように。
いつの間にか、倒れることが前提になっていた。

それにしたって、と僕は考える。
受身ではやり過ごせないダメージというものもあるのだ。
執拗に続くまわしは、僕が耐えうる限界を超えていた。
気絶できたら楽なのにな。朦朧としながらも気絶できない自分の体力が恨めしい。
泳ぎながら気を失えば、1分ぐらいは休ませてもらえるかもしれない。
けれどもそうなったらそうなったで、その分まわしは延長されるだろう。

日々厳しい練習をこなしていくことで、
僕たちの身体は四月の入部時とは比べ物にならないほどのスタミナをつけていた。
しゃにむに泳ぎながら僕は考える。
もしかして、二年生はこれを待っていたのではないか。
まわしのタイミングのことだ。
一年生の体力が十分についたところで、まわしを実行する。
まるで北京ダックのように。人間はアヒルに十分な餌を与え、丸々と太らせて、
頃合いを見て絞め、調理し、切り分けてそれを食べる。
痩せたアヒルでは美味しくない。
食べるのは、たっぷりと太らせてからでないといけない。

泳ぎながら何を考えても、最後には二年生に対する呪いの言葉に行き着いた。
気絶できないのだからしかたがない。怒りを糧にして身体を動かすだけだ。
笛を吹く係が横井さんから針山に交代して、まわしは一層厳しくなっていた。

この水球用プール、足が底に届かない深いプールは
膨大な水道水と、雨と、強力な塩素と、無数の虫の死骸と、部員全員の汗と唾液と、
長谷部の小便と、ひょっとしたら(たぶん確実に)他の誰かの小便も混ざった水で
なみなみと満たされている。
僕たちはその中でもがくようにして泳ぎ続けている。まわされている。
息継ぎをするたびそこに唾液を溶かし、咳き込んで唾を吐き、
「もうどうでもいい」と「ふざけんな」を交互に行き交わせながら
手を掻き、足を打ち続ける。
笛が吹かれるたび壁を蹴り、潜水し、ツラ上げで泳ぎ、水を飲んでむせ返り、
ジグザグに泳ぎ、何度もターンして、プールサイドに少し吐いて、
声をあげながら仰向けで泳ぐ。全ての注文に応えてみせる。

プールサイドに立った針山が声をあげる。
「次、ジャンプ!」
「はいジャンプでぃす!」
笛が吹かれると同時に鋭く旗が振られ、紺色の旗が風を切る音が耳に届く。
へたってんじゃねえぞ、と怒られているようだ。
僕たちは巻き足をスパートさせて浮かび上がり、
巻き足ではこれ以上浮かべない、というところまできたら
平泳ぎのキックを一発、下に向けて思いきり蹴る。
それが、足の届かない水中で跳び上がる「ジャンプ」のやりかただ。
平泳ぎのキックで頂点に達したら、激しく巻き足をしてその高さをキープする。
上級者ほど高く浮かび上がり、その高さをより長く維持することができる。
僕はヘソが見える高さまで浮かび上がるのがやっとで、
高さをキープできるのはせいぜい数秒間だった。
キープができなくなったら、旗の振られた方向に向かって腕を伸ばして倒れこむ。
ただ沈んではならない。ジャンプはディフェンスの練習だ。
旗は、倒れる方向を指示するために振られる。

ビシャァッ!身体を打ち付けるようにして水面に倒れ込む。
水飛沫の向こうに、プールサイドで退屈そうにふんぞり返る二年生が見えた。
呪いの言葉を唱えながら僕は次の笛に備えて巻き足で浮き、体勢を整える。
繰り返すうち、脚に力が入らなくなる。
太ももから筋肉が抜け落ちたように感じる。上半身も重い。
ジャンプの高さはみるみるうちに低くなり、
高さをキープできる時間はほんの一瞬になってしまう。
「オラ、終わんねえぞ!」
針山の怒声がとぶ。



全てが終わり二年生が行ってしまうと
僕たちは倒れこむようにしてプールサイドに寝そべった。
僕はざらざらとした石の感触を背中に感じながら
星の見えない夜空と、憎らしいほど眩しい照明灯と、
相変わらず光に群がっては死んでいく虫たちを眺めていた。
あたりは静かだった。あんなに波立っていた水面も今は鏡のように平らだ。
一年生七人は思い思いの格好で寝転がっている。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
今は何も考えず、ただ寝そべっていたい。

仰向けに寝そべったまま首を横に倒し、見るともなく見ていたプールの縁に
油蝉がとまっていた。
蝉は濡れたままじっとして動かない。
脚を広げて体を固定しているところを見ると、死んではいないようだ。
僕が潜水しながら見上げたあの蝉が波に運ばれ、打ち上げられたのだろうか。
それとも違う蝉なのか。
もしもあの蝉だとしたら、僕が死骸だと思ったのは間違いだったことになる。
蝉はまだ生きている。少なくともまだ死んではいない。

数分続いた沈黙を破ったのは、珍しいことに、無口なイワンだった。
「死んだ」
僕は「え?死んでないよ」と言いかけてから
ああ、蝉のことじゃないのか、と思い直した。
白井がイワンの背中に重いパンチを入れながら言った。
「死んでねえじゃねえか、よ!」
「いてっ」
イワンは背中を丸めて眉をしかめる。本当に痛かったのかもしれない。
隣に倒れていた長谷部が口を開く。
「いやあ、死んだっしょ。針山さんマジで鬼だわ。超信じらんね」
「信じらんねえのはバカ、お前だよ。まわしの最中に小便しやがって」
光太郎の言葉を聞いて小柴は上半身を起こし、長谷部を睨む。
「マジかお前ぶっ殺すぞ。お前だけこれからもう一回まわしな」
「ぶっ殺すぞ」と言う時の小柴の声が裏返ったのを聞いて長谷部はケラケラと笑い
「しょ〜がね〜じゃ〜ん、我慢できなかったんだから」
と節をつけて歌うように言った。一太が脱力した笑顔で
「バカ!」
と言った。

まわしは終わった。
疲労のせいなのだろうか、二年生への怒りはどこかへ消えてなくなっていた。
今はもう、二年生のことはどうでもいい。
僕たちはまわしを乗り切った。僕にとって大切なのはその事実なのだ。
大きな何かをやりとげたような、安心感と達成感が僕を包んでいた。
やってやったぞ、という妙な自信が自分の中に芽生えるのを感じる。
一年生の中に、同じ苦しみを味わった仲間同士の連帯感が生まれ、絆が深まる。
これで僕は本当の意味で水球部の一員になった。そんな気持ちにすらなっていた。
そして突然「いやー、マジ死んだわ」と笑っている自分に気づく。
あんなに理不尽な仕打ちを受けたというのに、
どうしてこんなに晴れやかな気分なんだろう。
くそっ。これじゃあ全てが二年生の思い通りじゃないか。
僕はなんとまあお人好しなんだろう。ふざけんじゃねえよ。ふざけんじゃねえ。
高揚する気持ちは止めどなく、湧き水のようにこんこんと湧き出していた。

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