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不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

構造主義の副作用


 僕が勝手に「被害者語」と名付けている語り口がある。

 たとえば「食べる」が「食べさせられる」へ、「見る」が「見させられる」へと変わったとたんに、それらの言葉から「やらされている感」とでもいうような被害者臭が立ち上ってくる。

 じつは、被害者語を作るのはとても簡単だ。「〜する」を「〜させられる」に変えればいいだけ。種を明かせば、これは文法的には「使役+受身」ということになる。まあ、そんなことはどうでもよい。

「〜させられる」という語り口が、被害者臭をまとわせるのは、主体性を失わせるからにほかならない。そのことは、「〜させられる」が意志表現と結びつかないことからも明らかだろう。

 たとえば「飯、食おうぜ」「ご飯、食べようよ」と僕らはふつうに会話する。しかし、「ご飯を食べさせられようぜ」という言い方はありえない。誰が好んで、「食べさせられる」なんてみじめな状態を意志するもんか。

 唐突ながら、ここで構造主義という思想について解説した文章に登場してもらおう。

〈私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
         (中略)
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実はその自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです〉(内田樹『『寝ながら学べる構造主義』)

 ここにも「〜させられている」という言い回しが登場している。そして、構造主義が教えるところでは、〈私たちは、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」〉。

 構造主義的な考え方は、次のような例を見ると、すんなり腑に落ちてくる。

 僕らがゲームをしたりテレビを見たりするとき、それは自分の意志に基づいていると思うはずだ。でも同時に、僕らはさまざまな広告や宣伝、あるいは番組予告によって、「テレビを見せられている」「ゲームをさせられている」ともいえる。

 雑誌でチェックした服を買う時、はたして買っているのか、買わされているのか。シニカルな人ほど(あるいはインテリな人ほど)、後者と言うだろう。

 構造主義の功績は、私たちの言動をより深い事象から規定するものを浮き彫りにした点にある。たとえば内田さんは、構造主義の「四銃士」の一人、ミシェル・フーコーという社会史家を紹介しながら、次のようにいう。

〈私たちは身体というものを生理的・物理的「自然」であり、それは古今東西どこにおいても同じような機能を果たしており、古代人であれ現代人であれ、知覚や身体操作に、本質的な差異はないと思っています。しかしフーコーによれば、身体もまた「意味によって編まれた」という点で、一個の社会制度に他なりません〉

 身体が「社会制度」であることの例として内田さんは、明治期の日本が「兵式体操」を学校教育の現場に導入したことを挙げている。

 ラジオ体操を思い浮かべてもわかるように、「体操」は一つの号令や合図で、大勢の人の身体動作を同時にコントロールすることができる。兵隊向きの身体をつくりたい近代国家にとって、「体操」はまさにうってつけの身体統御のツールだったのだ。そして、国民は知らず知らずのうちに、国家にとって都合のよい身体に「変化させられている」。これが、身体が「社会制度」であるということだ。

 かつて『オトナ語の謎。』という本が発売されヒットしたことがある。この本はサラリーマン社会のことばづかいを軽い揶揄とともに面白おかしく紹介したものだが、新入社員は最初からサラリーマンなのではない。「お世話になっております」とか「御社/弊社」とか「なるはや」とか、サラリーマン社会の標準語を使っているうちに、典型的なサラリーマンに「させられていく」、こんなふうに言えるかもしれない。

 構造主義を少しでもかじると、今までの常識的な見方とは異なる視点が獲得できて、とても頭がよくなったような気になる。でも、メリットばかりではない。構造主義的な考え方に耽溺するあまり、「がんばる」ことが馬鹿らしくなったり、他人の行為を冷ややかに見るという副作用を発症させることがあるのだ。

 賢明な読者はすでにお気づきだろう。「〜させられる」という被害者語を無自覚に使うならば、どんな行動だって「何かに〜させられている」と、服従を強いられる行動になってしまうのだ。

 一生懸命働いているつもりでも、働かされているだけ。自分の意志で歩いているつもりでも、歩かされているだけ。そう考えたら、何をするのも虚しくなる。

 あるいは、知人が嬉しそうに買ったブランド物のバッグを「あーあ、広告に踊らされちゃって」と冷ややかにいう。そんなことばかり言っていたら、友人が激減するのは火を見るより明らかだ。

「自分」というものは、自分が考えているほどに確固とした存在ではないにせよ、それと同じ程度に操り人形のような存在でもない。

 あるいは、こう言うこともできるだろう。何事も自己で決定する近代的な主体がフィクションだとしたら、何事も「〜させられている」と捉える構造主義的な主体も、同じ程度にフィクションなのだ。

 たとえ主体性の深層に「〜させられている」があるとしても、そのことが、自分ががんばらなくていい理由になるわけじゃない。

最後は、橋本治に締めてもらおう。

〈近代自我が幻想だって一向に構わないけど、だからって自分がチャンとしてなくたっていい訳じゃないでしょ?〉(『ロバート本』)

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