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不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

「わかりやすい教」にご用心


僕は、編集者とライターを兼業している。

 編集者の僕は、書き手から原稿を頂戴し、そこにコメントや疑問点などを赤字で指摘することが仕事の一部である。対してライターの僕は、担当してくれる編集者から逆に赤字の指摘をもらう。

 赤字が入らないということは、担当者がサボったか、赤字を入れるスキが原稿になかったかのどちらかだが、できれば後者であってほしいと常々願っている(逆に編集者の場合は、前者だと思われないように、かなり注意深く原稿を読む)。

 書く側としても、書いてもらう側としても、その先には読み手がいることは言うまでもない。だから「読み手への配慮」ということが、原稿仕事には漏れなく付いてくる。

 ここまでは当たり前の話だ。でも、この「読み手への配慮」ってやつがなかなかの曲者なのだ。

 いま出版の世界では、「わかりやすさインフレ」がものすごい勢いで生じている。あるいは「わかりやすさ圧力」と言い換えてもいい。

 彼らのいう「わかりやすさ」の大事な指標の一つは、「文章の頭から終わりまで、読み手にとって意味の分からない単語や表現がない」ことだ。

 たとえば「ルサンチマン」は、ニーチェの読者には馴染み深い言葉だが、人生でこの言葉に出会ったことのない人々も大勢いる。当然のことながら、知らない人は「ルサンチマン」を含んだ文章を一読したときに「ん?」という引っかかりの感覚を覚えるはずだ。

「わかりやすい教」の教えによれば、こうした「引っかかり」を体験した読者は、その場で読むことを放棄してしまうという。だから「ルサンチマン」ではなく「怨み」や「恨み」と言い換えたほうがいいというわけ。

 当然のことながら、「読み手」のなかには「ルサンチマン」を知っている人はいる。ところが、「わかりやすい教」の信者たちは彼らを正式な読者とは登録しない。内田樹氏がいうように、彼らは想像できるかぎり〈「最もリテラシーの低い読者」の読解力に合わせて無制限に下方修正を繰り返す〉のだ。

 さて、では「最もリテラシーの低い読者」に合わせた文章ほど、多くの読み手を獲得するだろうか。これは、いくらでも反証事例が見つかる。今年ベストセラーとなったマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』は、ハーバードの大学生を相手にした講義をまとめたものだ。京極夏彦の小説は、聞いたことのない妖怪の薀蓄話がそこかしこに綴られている。

 にもかかわらず、数十万という単位の読み手が存在する。それに対して、「〜が3分でわかる」といった「わかりやすい教」に忠実にのっとった本でも、まったく鳴かず飛ばずの本はいくらだってある(むろん売れてるものもあるが)。

 おそらく「わかりやすい教」は「普遍性」というものを誤解しているのだ。あるいは、「普遍性」と「特殊性」が対立するものだと思っている。つまり、特殊な言葉や表現は、普遍性やポピュラリティを損ねるとはなっから決め込んでいる。

 この「普遍性」と「特殊性」について、社会学者の大澤真幸氏が、面白いことを書いている。大澤氏は、マルクスのこんな問いを紹介する。

〈マルクスは、『経済学批判序説』の中で、ホメロスの叙事詩が――(マルクスの時代から見て)一六〇〇年前も前に書かれた叙事詩が――今なお「われわれ」にとって魅力的で、芸術的な愉しみの源泉となっているのはなぜなのか、という問いを立てている〉

 ホメロスの叙事詩には、僕らの知らない固有名詞がいっぱい出てくるし、描かれている内容も特殊な歴史的文脈に深く規定されている。いわば特殊だらけだ。それなのに、ホメロスの叙事詩は、普遍的な訴求力が宿っている。なぜ、特殊だらけの作品から普遍的な価値が生じるのか。

 大澤氏はニーチェを例に出して、こんな説明を与えている。少し長いが、引用してみよう。

〈一方で、ニーチェの思想の内容は、特定の歴史的文脈に規定されていて、そうした文脈と結びついている。一九世紀後半の西洋の思潮や社会的な状況が、ニーチェの思想の隅々にまで影を落としている。しかし、他方で、ニーチェの思想の枠組みには、そうした文脈化に解消できない残余があり、その残余は文脈化と葛藤に入ることになる。この残余と文脈の間の葛藤・違和そのものが、ニーチェの思想のアイデンティティであり、〈普遍性〉とは、まさにその葛藤・違和のことではないか〉

 思い切った要約をほどこせば、大澤氏のいう〈普遍性〉は、特殊な文脈への違和や葛藤から生じるということだ。逆にいうならば、特殊性を欠いたものには〈普遍性〉は宿らない。

 僕は音楽には明るくないので、間違った比喩かもしれないが、世界的な名曲のコード進行だけを抽出して聞かされても、そんなものはちっとも面白くない。そのコード進行に、さまざまな特殊な音が張り付くことで〈普遍性〉の芽が生じるんじゃないだろうか。

 あるいは、名作とされている小説や物語のあらすじや教訓だけを一般論として取り出したら、きっと「そんなの当たり前じゃん」という作品はいくらでもあるだろう。

 つまり、特殊なことそのものが〈普遍性〉になるわけではないけれど、〈普遍性〉は特殊性をガソリンにするというふうに考えられるんじゃないか。

 身近なことを考えれば、これは当たり前のことかもしれない。人の話も、具体的であればあるほど面白い。

 日本のニュース・メディアには「私」という一人称が欠けていることは多くの論者に指摘されていることだが、それはまた「具体性」や「特殊性」への忌避でもある。それを「わかりやすさ」と勘違いしているかぎり、具体的な生を日々送っている「読み手」は逃げていく一方だろう。

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