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酒場にて
日本全国常に一見。だが、旨い酒にはこと欠かない。酒と少しの音楽の話。

松江(其の一)


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 ずっと、この街の事を書かねばならないと思っていた。

 松江市を訪れたのは過去5〜6回だと思う。全て仕事で観光らしきものは特にしていないが、それでも、私にとってこの地は特別に落ち着く街の一つで、水の近さに独特の風情を感じるのだ。
 
 列車でここに降り立ったのは、多分一回だけでそれ以上の記憶がない。おそらく、米子からの移動だったのだろう。その一回以外は全て出雲空港から松江に入っている。天気がよければ、着陸前に宍道湖と島根半島の地形が本当に地図を見るような鮮明さで眼に入ってくる。南側は宍道湖、北側は日本海。その間の山々の起伏も手に取るように分かる。所々に集落があり、南側は鉄道がある所為か高いところから眺めても人の気配が北に比べ多いように感じる。ただもちろん日本海側も集落は多いし、車で移動すれば、たいした距離ではないかもしれない。この地にすんでいる方には失礼な言い方だが、ここにも人が住み、日々の営みをしているのかと思うと、海と山と湖の自然を文字通り上から目線で見ている訳なのだが、寅さんよろしく感慨に耽る。

 さて、宍道湖の西端の出雲空港に降り、送迎の車か、バスで移動する。湖と山陰本線に挟まれた国道を往く。宍道湖の西の端は堤防のような感じで、いささか風情に欠くがそんな事を感じるのは一瞬で目の前に湖が広がり、島根半島の山々も遠くに見据えながら走る。そして、より水は穏やかになり松江の街に入る。

 初めてか二回目の来松の時はよく覚えている。神在月のイベントだった。10月を神無月というが、ここは出雲大社に全国の神が集まるので、神在月というのだ。ただ、諏訪大社の神は出雲に出向かなくて良いらしく、諏訪の地でも神在月と言うらしい。

 そのイベントはママドゥ・ドゥンビア with マンディンカでの出演で市民会館のようなホールでの公演だった。もう十数年以上前の事だがよく覚えている。所謂、日本で言うところのワールド・ミュージックの最後期の頃で、他の出演者は、ネーネーズ、ヤドランカ、と記憶する。確か前乗りでリハーサル、本番はホールでの夕方の公演、今ならその晩の夜の便で帰京というところだが、打ち上げイベントにも参加するという事で、三日間程は松江に滞在した事と思う。

 前日のリハーサルを終え、バンドメンバーと松江城に登るかどうか、思案していた。然程高くは無いと思ったものの、いざ麓に行くと、結構見上げる感じで、やはり断念し、出雲蕎麦でも手繰り、その辺りを散歩する事にした。その時初めて食べた出雲蕎麦は存外に出汁が甘く、自分の口にはあまり合わなかった気がする。蕎麦屋でバンドメンバーと別れた私は通りすがった小泉八雲旧居に立ち寄った。なんともこじんまりとした庭だが、そのガラスの向こうの小さななんて事ない庭は、思いのほか落ち着きをもたらせてくれた。が、先程蕎麦屋で飲んだ酒が効いたのか、畳であぐらをかいて庭を眺めていたら、とても心地よく眠くなってしまった。八雲先生は、じゃあ寝ろ、と言っていたのか、自分に都合良く解釈し、その四畳半程の部屋で眠りに落ちてしまった。小1時間程だったと思うが、小さな部屋なので他の来館客の方にはいささか迷惑だったであろう。そして、起きた時に恥ずかしい気持ちになったが、なんとも穏やかな睡眠だった。間もなく閉館時間になり、何となく館を出た。

 ホールでの本番を無事終え、打ち上げの場に移った。総勢の打ち上げだが、どういう訳かネーネーズに同行していた知名定男さんにつかまった。
 「おまえ、大工哲弘のバックなんかやってんだって?」
 どこでそういう情報が漏れたのかは分からない。
 が、そこから、どういう訳だか、説教モードに入ったらしく、いろいろな事を言われた、と記憶する。おそらくさして批判めいたことを言われた訳ではないのだが、口調が説教調に聞こえたのだが、まあ、酒場での話だ。その後、沖縄関係のフェスティバルでも知名さんに会い、挨拶をした。ごく普通に会話に応じてくれたが、楽屋にあるステージが写っているモニターを時々眺めながら、とある歌手の声を聴き、こいつ鼻詰まってんじゃねえか、なんて、相変わらずの口のへらないかっこいい御仁だった。

 その翌日、川のほとりのスペースで今回のイベントの後夜祭的な催しがあり、それにも参加する事がスケジュール上も決まっていた。簡易的なアンプラグドなライブもあった。が、マンディンカはエレクトリックのロックバンドに近い編成なので、私なんぞは手ぶらでただビールを飲んでいただけだった。ママドゥ・ドゥンビアはンゴニだけを持っていた。フレットレス・バンジョーに近い三弦の西アフリカの楽器だ。

 その前に、ママドゥ・ドゥンビア氏の事について書かなくてはならないな。西アフリカ、マリ出身のギタリストでサリフ・ケイタのバンドで日本に来た時にこの国に興味を持ち、その後東京に移住した男だ。体はでかい。ママドゥに最初に会ったのは、多分、下北沢の今は亡きレイズ・ブギー(現、ラ・カーニャ)だった、と曖昧ながら記憶する。もう17〜8年前の事で、当時サリフ・ケイタのバンドのドラマー、ブリス・ワッシーが来日していて、私が参加していたミスター・クリスマスというバンドとのセッションが設けられたのだ。何か音源になるような事が目的ではなく、ただただ純粋に音楽を紡ぐ事だけの為のセッションだった。あっという間の3〜4時間で、もう終わりだというのにブリスは叩いていた。その後、皆で下北沢に繰り出し、和気藹々としていたところ、ママドゥが現れた。もう、ママドゥは日本で活動し始めた時期だったかもしれないが、まだ日本語は片言だった。ブリスが私の事をママドゥに紹介してくれた。こいつはなかなか面白いギターを弾く、なんて事を言っていたと思うが、ママドゥはにこにこして、よろしく、と言っただけだった。

 それから1年程たったか、ビブラストーンのライブの後、OTOさんに呼び止められた。おっ、桜井、ちょっと紹介したい奴がいるから待ってろ、と、OTOがママドゥを連れて来た。どうやら日本で本格的にバンドを始動したいらしく、私にバンドに加われという事だ。OTOさんの紹介であれば、音楽的には断る理由は無いと感じ、参加を決めた。

 それから、バンドはサーキットをこなし、順調に活動していた。マリ人、アメリカ人(マーティー・ブレイシー)、日系ドイツ人(コスマス・カピッツア)と日本人5人と言う大編成だが地方での仕事も多く、ほどなくアルバムをリリースした。MM誌ではかなりの高評価で中村とうよう氏などは絶賛していたが、私は不満だった。分かりやす過ぎた。ファンクに逃げたくなかったし、血とか文化ということで簡単に片付かない次元をロジカルに追いつめるべきだと思っていたのだ。ただ、最初からメジャーのレーベルなのだ、ある程度は仕方ないし、ママドゥのやり方はある一面真っ当だし、ライブではもっと多彩な表現出来ているんじゃないか、なんて納得しつつバンドを去りはしなかった。
 それに、ママドゥとはウマがあった。私はアフリカのいろいろな音楽の事を彼に質問し、こうやって弾くのか、なんてレッスンのような感じでいろいろ教わった。ただ、彼はバンドでそこまでアフリカの音楽を表現しようとは思っていなかったようだった。リハーサルで私がシークエンスを弾いていると、そのグルーブは西アフリカのものだ、もっと今のダンスビートに合うスクエアーな分かりやすい弾き方で行け、と指示された。マンディンカのバンドの方向性としてそれは致し方ない事だと思った。が、ときおり自分も参加したママドゥのアコースティックセッションは全く別だった。ゆったりとしたシーケンスが5〜10分も続くのだ。ママドゥのコラやンゴニの響きが太く優しい。極東に舞い降りた優しい大地の音だった。ワールド・ミュージックと呼ばれていたこの時期、我々が思いを馳せるアフリカはまだまだこの段階で良いのではないかと思った。(当時、FM東京でこのアコースティックセッションのライヴが放送されたのだが、誰か録音していた方はいないだろうか。基本メンバーはママドゥ、コスマス、私、他に鍵盤の松田さんもいたかもしれないし、ジャンベのユールもいたかな。ゲストで琴の八木美知依さんも参加していたと思う)

 そんな諸々の事を察知してくれたのか、ママドゥは2ndアルバムのプロデューサーとして、私を任命してくれた。音楽的にはママドゥが作るものを補佐するに過ぎないが、私はママドゥのもっとパーソナルの部分を出すべきと彼自身にもマネージャーにもレーベルにも助言し、名義はママドゥ・ドゥンビア with マンディンカとなった。(1stはマンディンカだった)ただ、録音最中はメンバーとママドゥの間に挟まれ、精神的になかなか大変だった事は覚えている。スタジオである程度録音が進むとママドゥから、あとは桜井の仕事だ、と言われたり、メンバーから、なんでこれでOKじゃないんですか(私はOK出しててるけど、ママドゥが納得していない)とか、演奏する以上の葛藤はこの時はじめて味わった。が、何とか2ndアルバムも満足のいく完成度で録音する事が出来た。ママドゥには最終仕上げはパリでするので、一緒に来るように、と言われたのが、私は奇しくも大工哲弘さんとの仕事が入っていたので、co-producerのクレジットにしてもらった。そして、リリース後バンドはヨーロッパツアーに行く事になる。

 実はその直前の関西ツアーの様子を含めたママドゥ・ドゥンビアの特集番組がテレビで放映された。ナレーションに唖然とした。ママドゥとバンドの仲が悪い、という事になっているのだ。確かに録音中はいろいろあった。が、ライブは問題なかった。でも、テレビではそんな困難を乗り越えてママドゥがヨーロッパに向かう事を美化して描いているのだ。まあ、演出だし、よくある事だ。それでも私は一仕事終え安堵したのか、このドキュメントには然程写らない。ツアー中、部屋で飲んでいたら、マネージャーのTさんからお呼びがかかり、ママドゥの部屋でのミーティングの様子をカメラに収めたい、との事で、実際その様子が放映されたのだが、カメラの前で私はほとんど眠っていた。

 そして、バンドはヨーロッパツアーを敢行し、帰国してから何度かライブをやった頃、私には声がかからなくなり、風の便りに、休止しているとの事を知った。





 話は松江に戻る。そんなママドゥはその後夜祭的なイベントでンゴニを持ち、バンバラをやりたいと、私に耳打ちした。幸いステージにはアコースティック・ギターとコンガが用意されていた。もちろん承諾した。トランペットの唐沢さんは楽器をもってきていて、たちまちバンバラのセッションに突入した。

 バンバラとは西アフリカ、バンバラ族の音楽の事を指しているのだが、それがどのようなものか、という説明は省く。検索していただければいくつも出てくるはずだ。ただ、ママドゥが常日頃好きだと言っていた美空ひばりの「リンゴ追分」や「柔」との共通点を見いだす事はそんなに難しくないと思う。

 ママドゥはンゴニでゆったりとシンプルなリフを弾き言葉をのせた。コスマスと私はそれについていき、グルーブに重なる。時折、唐沢さんのトランペットが遠くで鳴る。そんなシンプルなリフが心地よくしばらく続いていた。ほろ酔い加減の天候の良い午後の野外には申し分ない響きだった。すると、どこからか声が聞こえてくる、明らかに我々の音楽に呼応したハーモニーだった。しかも言葉はよくわからない。正体はすぐに分かった。我々の後ろでネーネーズの四人が歌っていたのだ。ウチナーグチで民謡らしい振りもついていた。このときは本当に楽しくて震えた。世界のどこにも無い音楽を自然に演奏していた。今思えば、そう言う事に喜びを感じていた時期だったに過ぎない。が、それでも鮮明に覚えているのだ。

 後でネーネーズの誰かに聞いたら、あれは本当に沖縄民謡でその一節をリフレインしていただけ、との事だった。ママドゥのリフを聴いていたら、自然にフレーズが出て来てステージに上がってしまったらしい。そして、その夜はとても旨い酒を飲んだ。



 という事もあり、松江にはとても良い鮮明な印象がある。その後、小松亮太君の数度のコンサートもいつも感触がよく、この地は自分にとって少し特別な場所となっている様な気がする。そして、小松亮太君の時に限って言えば、メンバー全員でいつもこの街の酒場を探し、よくうろつく。結果、成功率7割くらいか。この間の焼肉屋も良かった。

 ちょっと長くなりそうなので、今年の梅雨時に浜田真理子さんと再会した話は、次回にしよう。
 

<関連リンク>

Mamadou Doumbia official website
http://mamadoujpn.web.fc2.com/

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