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不思議のフシギ
ワタシのココロって不思議。ワタシとアナタの関係も不思議。考えだすときりがないヒトの不思議のモロモロを、不思議ってフシギだなあと楽しんでみます。

習慣はもっと柔らかい


習慣とはバカにできないもので、決まった時間に目を覚まし、歯を磨いて朝食を摂り、学校や会社に出かけていくことは、多くの人に、生きることの安定的な基盤を提供している。

卑近な例をあげれば、毎週決まったテレビ番組を(録画ではなく放映時間に)見ることだって、生活になにがしかのリズムを生み出し、安定した暮らしを営むことに寄与していると思わないでもない。

もちろん、決まった時間に決まった行動を取ることは、見方を一つ変えれば「決まった時間に決まった行動を取らされる」と転じもするのだから、「習慣」と「強制」は紙一重の概念だということもできるだろう。

実際、現実の社会を眺めてみれば、習慣というものは、非常に旗色が悪い。24時間点灯し続けるコンビニエンス・ストアは、「決まった時間に食事をする」という食の習慣を一変させたことは疑いようがなく、(給料さえ下がらなければ)会社でのフレックスタイム制の導入を喜ぶ声のほうが圧倒的に強いだろう。

うん。習慣の多くは、その根拠を探っていくと、「なんだかよくわからないけど、そういうことになっている」というものでしかなく、それゆえに、ひとたび疑問を差し挟むやいなや、不自由や強制と感じられて、「だったら、そんなもんはさっさと捨ててしまえ」ということになりやすい。

現代の社会から、共通の価値観や前提が失われているというお話は、要するに「習慣」を片っ端からゴミ箱に放り込んできたことの帰結なのだ。

だからこそ、自己啓発と呼ばれる分野では、「習慣」の復権が強く叫ばれたりもしている。たとえば、5年前に大ベストセラーになった『キッパリ!』という本に真っ先に出てくる「自分を変える方法」は、「脱いだ靴は、そろえる」だった。やたらと手帳術や時間管理術が売れるのも、習慣なき毎日を人為的に律したいという現代人の欲望に応えているからだろう。

ただ、かつてと違うのは、現代人はあくまでも自己利益のために「自分だけの習慣」を作ろうとしている点だ。他人を出し抜くための習慣、といってもいい。「自己啓発」という言葉は文字通り「自己」だけが問題にされ、そこに他者はいないのだ。

「そんなこと言ったって、周囲がだらしなく過ごしているんだから仕方ないじゃん。自分だけでもきちんとした生活をしようとして何が悪い?」なんて反論がすぐに聞こえてきそうだ。

別に、悪いとは思いません。でも、毎朝早起きしてマラソンをするとか、通勤電車のなかで英語学習をするとか、もっぱら自己の利益やスキルアップを目的にした「自分だけの習慣」は、習慣の片方の極しか見ていない。

習慣のもう一方の極には、他者との共同性のなかで紡がれていくような「共同的な習慣」がある。

元来、脱いだ靴を揃えることは、『キッパリ!』が説くような「自分を変える方法」なんかじゃなく、他者とともに暮らすうえでの作法のようなものだ。それは、まちがっても自分の利益やスキルがどうこうという筋の習慣じゃなかったはずだ。

ここで、「習慣」の意を含んでいる、ラテン語の「ハビトゥス」という言葉に登場してもらおう。「ハビトゥス」について、哲学者の山内志朗さんは『天使の記号学』で次のように書いている。我田引水スレスレで恐縮だが、ちょっと読んでもらいたい。

〈さて、「ハビトゥス」とはどういうことなのだろう。通例、ハビトゥスは「習慣」と訳されるが、意味がずれるところがある。「習慣」とは、外に現れた行為や生活の型であるが、ハビトゥスとは、むしろそういった型を産み出す能力であり、しかもさらに重要なのは、個人の生活の中でなされる行為の型よりも、むしろ他者との関わりの中で行われる行為を産み出す能力なのである〉(山内志朗『天使の記号学』)

我田引水スレスレと書いたのは、当然「他者との関わりの中で行われる行為を産み出す能力」というフレーズに着目してのことだ。別の部分では、〈「習慣」の基盤にある、身体化された、社会的能力〉という言い方もしている。

この理解にしたがえば、人との関わりのなかで喜んだり、悲しんだりすることも、ハビトゥスということになる。だって、悲しむ感情は、人との交わりのなかでもたらされるものであって、独力で獲得するようなもんじゃない。山内さんも〈感情は心の状態というより、ハビトゥスなのだ〉と書いている。

おっと。少し脱線しかけているので、話を戻そう。

何の話をしていたかというと、習慣は、自己に利するためのものだけじゃなく、他者との関わりのなかで身に付けるものでもあるということだった。

冒頭で僕は、習慣と強制は紙一重だと言ったが、おそらく習慣を固定的なものとして考えると、強制のほうに近づいてしまうのだ。

しかし、ハビトゥスの考え方を借りるならば、僕らには、他者と関わりながら、習慣を産み出していく力だって備わっている。

たとえば、毎日のように開かれる会議が、どうにも時間の無駄遣いとしか思えない。でも、それは少しずつではあれ、変えられるものでもあるだろう。上司や同僚ともうまく関わりながら、よりマシな会議にしていくことは、決して不可能なことじゃない。続けていけば、それが新しい習慣として根付いていく。

僕らが考えている以上に、「習慣」とは、もっと柔らかくて、しなやかな概念なのだと思う。

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