ホームホームマガジン > 中川五郎/グランド・ティーチャーズ > 今改めて1960年代のジュディ・コリンズ

グランド・ティーチャーズ
中川五郎さんのセンセイたち。ってことは、僕たちのグランド・ティーチャーズ。同時代を生きる共感と敬愛を込めて、ご案内いただきます。

今改めて1960年代のジュディ・コリンズ


photo

 最近ジュディ・コリンズのアルバムをよく聞いている。といっても新しいアルバムではない。彼女が1960年代の中頃から後半にかけて発表したアルバム、つまり当時ぼくがまだ10代だった頃にレコード盤で熱心に耳を傾けていた作品を改めてCDで手に入れ、取っ替え引っ替えして聞いているのだ。
 ジュディ・コリンズのアルバム・デビューは、1961年彼女がまだ22歳の時にエレクトラ・レコードから発表した『A Maid of Constant Sorrow』だが、それから70年代の中頃までのアルバムが二枚一組、あるいは五枚組のセットになってCD化され、しかもすごく手に入れやすい値段で発売されている。ちなみに最初の二枚、『A Maid of Constant Sorrow』と1962年のセカンド・アルバム『Golden Apples of the Sun』が二枚一組になって1000円ちょっとぐらいで、1963年の『Judy Collins #3』と1964年の『The Judy Collins Concert』も2 in 1になってやはり1000円ちょっとぐらいで、そして1965年の『Judy Collins Fifth Album』から1968年の8作目の『Who Knows Where The Time Goes』までの四枚と1975年の12作目の『Judith』は五枚組となって(何故か70年代前半にジュディが発表した三枚のアルバムは無視されたかたちになっている)何と2000円前後の値段で発売されている。一枚あたり400円という安さだ。
 ぼくがまず手に入れたのは、『Judy Collins #3』と『Judy Collins Concert』の二枚一組と『Judy Collins Fifth Album』からの五枚組セットだが、その中でもとりわけ『Judy Collins #3』から『Judy Collins Concert』、『Judy Collins Fifth Album』の三枚のアルバムをよく聞いている。これらのアルバムは当時の日本ビクターから発売されていて、それこそぼくはレコード盤の溝がすり減ってしまうほど、何度も何度も聞き返していた。

 ジュディ・コリンズは1939年5月1日生まれで、13歳の時にクラシック・ピアニストとして初ステージに立っているが、その後彼女の関心はフォーク・ソングへと向かい、ギターを手に取ってトラディショナル・ソングを中心に歌い始めた。そして1950年代後半、フォーク・ソングの人気がアメリカのいたるところで高まる中、そのメッカと言えるニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにジュディは登場し、街角やフォーク・クラブで歌って注目を集め、レコード・デビューを果すことになった。もちろん彼女が最も影響を受けていたのは、当時のフォーク・リバイバルの支柱的存在だったウディ・ガスリーやピート・シーガーの歌だった。

 ジュディ・コリンズの最初の二枚のアルバムの収録曲は有名なトラディショナルのフォーク・ソングが中心だったが、サード・アルバムの『Judy Collins #3』から、彼女は同時代のフォーク・シンガーやシンガー・ソングライターの新しい曲を積極的に取り上げて歌い始めるようになった。
 60年代初めから中頃にかけて、アメリカのフォーク・シーンで人気を二分していた女性シンガーがジュディ・コリンズとジョーン・バエズだ。二人ともトラディショナルを歌うフォーク・シンガーとしてスタートし、同じ頃に同時代のミュージシャンの新しい歌も取り上げて歌うようになり、もちろんぼくは二人とも熱心に聞いていたが、強く心を惹かれたのは、当時の日本で圧倒的な人気の差があったジョーンよりもジュディだった。曲の選び方や解釈、歌い方など、ぼくはジョーンよりもジュディの方に、より革新的というか過激な要素を感じ取っていた(一般的にはジョーンの方が過激で政治的というイメージがあったようだが)。

 ピート・シーガーを初めとするアメリカのフォーク・シンガーたちの影響を受け、ギターを手に取り、まねごとのオリジナルを作ったり、アメリカのさまざまなフォーク・ソングを日本語に訳したりして、すでに人前で歌い始めていた当時のぼくにとって、その頃手に入れたジュディ・コリンズの三枚のアルバム、『Judy Collins #3』、『Judy Collins Concert』、『Judy Collins Fifth Album』は、まさに宝の宝庫だった。それらのアルバムでジュディは、ボブ・ディラン、トム・パクストン、リチャード・ファリーニャ、エリック・アンダースン、フィル・オクス、マルヴィナ・レイノルズなど、すでにその頃よく知られていたフォーク・シンガーたちのよく知られている曲を取り上げて歌っていたが、フラン・ミンコフとフレッド・ヘラーマンの「Come Away Melinda」やリチャード・ワイズマンの「Medgar Evers Lullaby」など彼女の歌によって初めて知った曲もたくさんあった。
 ザ・キングストン・トリオやジョニー・キャッシュの歌の作者としてすでにその存在を知っていたビリー・エド・ウィーラーやシェル・シルヴァースタインの曲のすごさをぼくに教えてくれたのもジュディだった。
 中でもジュディが特に気に入り、何曲もカバーして歌っていたのが、1932年ウェスト・ヴァージニア生まれのシンガー・ソングライター、ビリー・エド・ウィーラーだった。『Judy Collins Concert』で3曲、『Judy Collins Fifth Album』でも1曲、ジュディはビリーの歌を取り上げて歌っていて、それらの曲にすっかり感激したぼくは、ビリー・エド・ウィーラーの輸入盤のアルバムやソングブックを注文して手に入れ、その中の「Coal Tatoo」という曲を日本語に訳して「炭の刺青」というタイトルで歌うようにもなった。

 1969年5月にぼくは高石ともやさん、岡林信康さんとの共著で社会新報から『フォークは未来をひらく』という本を出していて、ぼくの文章はあまりにも拙くて読み返すのがほんとうに恥ずかしいかぎりだが、その中でジュディ・コリンズの歌に触れている部分がある。当時ぼくがどれだけ彼女の歌に心酔していたのか、わかってもらえるのではないだろうか。
「(『コール・タトゥー』の)レコードは、日本では三つでている。キングストン・トリオは、かなりくずれたやくざっぽいうたい方。ミッチェル・トリオはモダンに処理してしまって少し味けない感じ。ところがジュディ・コリンズの『コール・タトゥー』を聞くと、まさにこれだという感じが、ぼくにはする。廃鉱で失業した炭坑労働者が木枯らしに身をさらして、新しい職を求めてさすらう内容のうたが、コリンズのうたい方では、その歌詞をこえたもの、独占資本に対する怒り、搾取されてきた労働者の力強い連帯が表現されている。決してヒステリックにはならない戦闘的なコリンズのうたい方は、他を完全に凌駕している」
 そしてそれに続けて「ぼくは、このうたをうたうとき、やはりジュディ・コリンズをお手本にしている」とか、「ひとつのうたに、いろいろなうたい方があって当然だろう。でも、そのうたの内容をもっとも現実的に表現するうたい方があり、それが良いのにきまっている」とか、何とも身の程知らずというか、大きなことを書いていて、今読み返すと恥ずかしさのあまり顔から火が噴出してしまう。しかもその後にはもっと偉そうなことを19歳のぼくは書いているのだ。嗚呼…。

 ぼくがジュディに夢中になっていた1967年、その年の5月に彼女はギタリストのブルース・ラングホーン(オデッタなどの伴奏をしていたとてもユニークなスタイルのギタリストで、大きなタンバリンも叩いていた。ディランの「ミスター・タンブリンマン」のモデルだと言われている。ぼくは彼のギターがとても気に入り、フォーク仲間の中川イサトさんや松田ARI幸一さんたちと一緒に、彼が参加しているアルバムを必死で探しては興奮して耳を傾けていた)を引き連れ、アーロ・ガスリーやジョーン・バエズの妹のミミ・ファリーニャと一緒に(恐らくは)最初で最後の日本公演を行っている。
 ぼくは大阪のサンケイ・ホールで開かれたジュディのコンサートに喜び勇んで出かけて行ったのだが、前の三列ぐらいしか埋まっていない客の入りで、フォーク・ブームの真っただ中、この客数はいったいどういうことかと愕然としたことを今もはっきりと覚えている。しかしジュディの演奏を目の前で見られたことは、ぼくにとってはほんとうに貴重でかけがえのない体験だった。

1970年代の後半になってもぼくはジュディ・コリンズが新しいアルバムを発表するたびずっと聞き続けて来たが、80年代に入ってスタンダード・ナンバーやブロードウェイ・ミュージカルの曲が数多く取り上げられ、アレンジも豪奢なものになって行くにつれて、以前ほど夢中になって耳を傾けることはなくなってしまった。
 しかし1993年に彼女が発表した『Judy Collins Sings Dylan Just Like A Woman』は、60年代の初めにいち早くディランの曲を取り上げて歌い、その後も歌い続けて来た彼女だからこそ作れたすごい名盤で、ジュディによるディランの名曲の数々の名解釈が存分に味わえ、ディランに対する彼女の大きな愛にも溢れている。
 このアルバムが当時日本盤で発売された時、嬉しいことにぼくはライナー・ノーツを書かせてもらった。あまりにも素晴らしい内容に、ぼくのペンを持つ手は自然と力が入り(実際にはワープロのキーを叩いて書いたのだが)、どれだけちゃんと書けたかのよくわからないものの、精魂込めて書き上げ、ぼくとしては自分がこれまでに書いた数多くのライナー・ノーツの中でも、最も印象的な一作となっている。

 最近ぼくは特に三枚のジュディのアルバムを熱心に聞き返していると書いたが、その頃の彼女はまだ自分で曲を書くことはなく、トラディショナルを歌ったり、ほかのフォーク・シンガーの曲を取り上げて歌うことが中心だった。
 ジュディが自分でも曲を書き、いわゆるシンガー・ソングライターの仲間入りをしたのは、1967年のアルバム『Wildflowers』(3曲オリジナルが収められている)からだ。もちろんその後ジュディはソングライターとしても興味深い作品を数多く発表しているが、ぼくはシンガー・ソングライターではなく、最初に出会った頃のシンガー・インタープリター(歌い手にして解釈者)としてのジュディの印象があまりにも強烈すぎて、今でも彼女のオリジナルよりも、ひとの曲を彼女がどんなふうに解釈して歌っているのかということにどうしても関心がいってしまう。

 出会ってから45年以上、改めて今ジュディの初期のアルバムを聞き返したくなったのは、ぼくがまた自分が歌い始めた頃のフォークに立ち戻っているということと関係があると思う。
 60年代のフォークなんてと、それこそ過ぎ去ったもの、懐かしいものとして捉えていた時期もあったが、乱暴な言い方をすればピート・シーガーが教えてくれたフォークが、今ぼくにとってはとても新鮮で、リアルかつパワフルに響き、そこから改めて気づかされたり、学び直すことが山ほどある。
 ぼくが過去の自分の原点に立ち戻るのは、まさに未来に向けてこれからも歌を作って歌い続けたいからで、時代が巡り、自分たちを取り巻く世界がとんでもない状況になっていく中、あの頃のフォーク・ソングが、ぼくにとってはとてもヴィヴィッドで刺激的なものとして伝わり、ほんとうに多くのことを教えてくれる。とりわけジュディ・コリンズのあの頃の歌が…。

 この文章は10月中頃にリリースされるはずだったジュディの最新アルバム『Bohemian』を聞いて、72歳になった彼女が今何を歌い、どんな解釈をしているのかということに触れて締めくくろうと考えていたが、残念なことにそのアルバムのリリースが11月前半に延期されてしまった。アルバムを聞いて考えたり感じることが多々あったら、またどこかで書くようにするので、その時はぜひ読んでください。

photo

<関連リンク>

ジュディ・コリンズ オフィシャル・サイト
http://www.judycollins.com/index1.php

  • 前回の記事
  • この連載のトップ
  • 次回の記事

▲新着順▲著者順