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グランド・ティーチャーズ
中川五郎さんのセンセイたち。ってことは、僕たちのグランド・ティーチャーズ。同時代を生きる共感と敬愛を込めて、ご案内いただきます。

大きな壁が崩れる


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「We Shall Overcome」という歌とぼくが初めて出会ったのは、ぼくがアメリカのフォーク・ソングに夢中になり始めた中学生の終り頃だったから、恐らく1963年か64年のことだったと思う。キングストン・トリオやブラザース・フォア、ピーター・ポール&マリー、そしてジョーン・バエズといったグループや歌手が人気を集め、日本でもフォークが大きく広がり始めた頃、「勝利を我等に」という邦題が付けられた「We Shall Overcome」は、「花はどこへ行った/Where Have All The Flowers Gone」、「500マイル/500 Miles」、「風に吹かれて/Blowin’ In The Wind」、「我が祖国/This Land Is Your Land」、「ドンナ・ドンナ/Donna Donna」、「天使のハンマー/If I Had A Hannmer」などと並んで、アメリカのモダン・フォークの代表曲のひとつとなっていた。
 しかしぼくが「We Shall Overcome」という歌の真髄に触れ、心を鷲掴みされたのは、ピート・シーガーが歌うこの歌を聞いた時だった。すでにピートは1963年に発表したライブ・アルバム『The Bitter And The Sweet』で「We Shall Overcome」を歌っていたが、ぼくが衝撃を受けたのはその翌年、1964年に発表されたライブ・アルバム『We Shall Overcome Recorded Live at His Historical Carnegie Hall Concert June 8,1963』の最後でピートが歌っている「We Shall Overcome」だった。

 ピート・シーガーのカーネギー・ホール・コンサートが行われた1963年の夏といえば、アメリカの黒人たちが人種差別の解消と公民権とを求めて激しく闘っていた時代で(アメリカの公民権法は1964年7月2日に制定された)、公民権運動の中でさかんに歌われ、運動のテーマ・ソングとなっていた「We Shall Overcome」をピートは、コンサートに参加した公民権運動の活動家たち、そしてカーネギー・ホールを埋め尽くした聴衆たちと共に熱く、力強くシング・アウトしていた(聴衆はきっと白人が多かったことと思う)。
 ぼくはこの「We Shall Overcome」を聴いて、歌の力のすごさというものを痛いほど思い知り、ここを出発点として自分も真剣にフォークを歌いたいと決意するようになった。だから「We Shall Overcome」こそが、ぼくのフォークの原点だと言っても、決して過言ではないのだ。

 それから数年後、高校生のぼくは人前で歌い始めるようになり、1960年代後半、さまざまなフォーク集会、ベトナム戦争の反戦集会やデモ、あるいはフォーク・ゲリラ、はたまた大学闘争の中で、必ずといっていいほどみんなで「We Shall Overcome」を歌うようになった。
 しかしその「We Shall Overcome」は、英語のままで歌われたり、よく歌われていた日本語の歌詞にしてもぼくには何だかぴったり来ないものだったりして、大声で歌っていてもピート・シーガーの歌を聞いた時に感じた大きな「歌の力」をその歌の中に見つけ出すことはなかなか難しかった。
 そして時代の移り変わりと共に「We Shall Overcome」は、日本ではめったに歌われることがなくなり、たまに歌われるとしても1960年代の懐かしい歌、あるいは運動とは切り離された単に美しいメロディの歌としてしか歌われなくなってしまったようにぼくは思える。

「今度のライブ、みんなで一緒に歌える歌は何かないかしら? 『We Shall Overcome』を新しい日本語で歌えたりしたらいいけど」と、ぼくに声をかけてくださったのは、東京都清瀬市でギャラリー・カフェ・バー「ナルドの壷」をやられている池田いづみさんだった。
「ナルドの壷」では、2011年10月に初めてライブをやらせてもらい、今年の6月30日に二度目のライブをやらせてもらうことになっていた。その四、五日ほどまえに「一緒に歌える歌は何かないか? 『We Shall Overcome』の新しい日本語歌詞はどうか」と、池田さんに言われたのだ。
 池田さんから連絡があった日の三日ほど前の6月22日の金曜日の夜、ぼくは毎週金曜日に行なわれている首都圏反原発連合が呼びかける首相官邸前での大飯原発再稼働反対行動に初めて参加した。そしてほんとうにたくさんの人たちと一緒に「再稼働反対」のシュプレヒコールをあげながらも、ただひとつの言葉を連呼するだけではなく、こうした動きの中でみんなで一緒に歌える歌があればいいのにと痛感していた。新しい「We Shall Overcome」の必要性も、その時ぼくの頭をよぎっていた。
 だから池田さんの提案にぼくは「できるかどうかわからないけどやってみます」とふたつ返事で答え、何日かかけて「We Shall Overcome」の新しい日本語詞を考えてみた。そしてライブの前々日の6月28日に全部で5番の歌詞からなる「We Shall Overcome」の新しい日本語の歌詞を何とか作り上げることができた。

「We Shall Overcome」の新しい日本語詞を作るにあたって、ぼくはあることを自分自身に課した。それはこれまでの日本語詞で必ず使われる、We=我ら、Overcome=勝利、Someday=いつの日か、を禁句にして作ろうということだった。Weが主語になったり、Somedayが強調されたりすると、かえってこの曲の歌の力が弱まり、何だか曖昧で漠然としたものになるようにぼくには思えたからだ。
 それに「勝利の日まで闘い抜くぞ」と歌っていたかつての日本語詞は、歌いながらも勝利という言葉がちょっと上滑りしているというか、かたちだけになっているような感覚をいつも抱いていた。だから勝利という言葉はできれば避けたかったのだが、結果的には一か所だけでどうしても使わざるを得なかった。
 ぼくはWe Shall Overcome、すなわちわたしたちは打ち勝つ、というこのフレーズを、自分たちは大きなものを乗り越えて打ち勝つと解釈し、「大きな壁が崩れる」という日本語を当てはめることにした。そして出だしの「We Shall Overcome」を「大きな壁も/ぶつかり崩す」と歌ってみることにした。
 そして最後の5番だけは完全にぼくの創作にして、「大事なものは/必要なものは/もう一度考えてみよう/おお、便利な暮らしか/緑の自然か/100年後に生きる子どもたち」というオリジナルの歌詞を作った。
 最後の一行はひとたび原発事故が起こったりした時の影響は100年後どころか、千年、万年にも及ぶので、100年はあまりにも短すぎる気がしたが、あまり先だとリアリティがないようにも思え、自分の孫や曾孫の二世代、三世代後の子供たちということなら、すごくよくわかるのではないかと思って、最終的には100年後にすることにした。

 そして作ったばかりの新しい日本語詞をコピーしたものをみんなに配って、6月30日の「ナルドの壷」のライブで「We Shall Overcome」を歌ってみたのだが、みんな一緒には歌ってくれたものの、ほとんど反応がなくて、「うーん、これはちょっとよくなかったかな」とがっくりきてしまった。
 ぼくの作る歌詞の常で、ちょっと字余りの度合いが強すぎるのか、みんなで一緒に歌うには難しいのだろうか。とにかく再検討の余地はある。みんなの意見を聞き、言葉も変えて、もっと歌いやすくして、歌い込んでいけば、反原発、脱原発の高まる動きの中で、みんなで歌える歌になるかもしれないではないか。

 それからぼくは8日間の北海道ツアーに出かけ、「ナルドの壷」でのライブから二週間後の7月13日の金曜日にも首相官邸前、国会前での原発再稼働反対抗議行動があった。二週間の間に大飯原発3号機は7月5日に再稼働してしまい、シュプレヒコールは再稼働反対から再稼働撤回に変わっていた。もしかしてみんなで歌える機会があるといいなと、ぼくはこの日は、ギターと「We Shall Overcome」の新しい日本語詞のコピー100枚ほどを持って、行動に参加した。
 二週間前に比べて規制はうんと厳しくなり、抗議行動ができる歩道はいくつものブロックに分断され、いったん進めば引き返すことができず、とにかく身動きのとれない状況で、もちろん車道に出ることはできない。指示されるまま進んで行くと、国会前の第二ステージと呼ばれている場所の近くまで行くことができた。
 再稼働撤回のシュプレヒコールが一段落した時、「誰かスピーチをしたい方はいますか?」というスタッフからの呼びかけがあったので、ぼくは植え込みの後ろを抜けていちばん前まで行き、「歌を歌いたいんですが、いいですか?」と聞いてみた。対応してくれたスタッフから「一番だけならいいです」、「盛り上がらなかったらやめてもらいます」、「歌詞を配るのはだめです」と言われ、それでも新しい日本語詞の「We Shall Overcome」を歌い始めると、「もうちょっと歌ってもいいですよ」と4番まで歌わせてくれた。しかも嬉しいことに歌詞のコピーを配ることもOKになり、すぐにまた全部の歌詞を歌うことができた。
 前にいた人たちだけだったが、歌詞を見て大きな声で一緒に歌ってくれる人たちもたくさんいて、手応えがしっかりとあり、歌っているうちにぼくはどんどん熱くなっていってしまった。スタッフもマイクをずっと持って助けてくれ、とても心強く、ありがたかった。

 7月後半は自分のライブがほとんど連日のように続き、ぼくはその中で新しい日本語詞の「We Shall Overcome」をみんなと一緒に歌い続けている。歌うたびにこの歌がどんどん成長して行くというか、確かなものになって行く実感をぼくは味わっている。
 もっと歌いやすく、歌詞も推敲して、「大きな壁もぶつかり崩す」、「大きな壁が崩れる」と歌われる新しい日本語詞の「We Shall Overcome」が、じっとしていられずに立ち上がったみんなの中に広がっていくことをぼくは強く願っている。
 もちろん広がっていく中で、歌詞はみんなが歌いやすいように、みんなが歌いたいようにどんどん変わっていけばいい。そもそも「We Shall Overcome」という歌自体、20世紀の初めにフィラデルフィアの牧師でゴスペルの作者でもあった人物が書いた「Overcome」という言葉が使われた歌が、何度か変化し、発展して、1946年にサウス・カロライナのタバコ会社のストライキの中で黒人の女性たちが士気を高めるために歌う讃美歌「We Will Overcome」となり、その後テキサスの労働者教育センターの白人女性のジルフィア・ホートンが歌い継いで、それを教わったピート・シーガーがガイ・キャラワンやフランク・ハミルトンと共に手を加えて行き、今の「We Shall Overcome」となったのだ(だから作者のクレジットはこの4人となっているが、この歌の使用料や収入のすべては、非営利的法人「We Shall Overcome基金」に行き、そこからは毎年アメリカ南部でアフロ・アメリカ音楽を促進するための助成金が供出されている)。
 言葉を変えながら新しい日本語詞の「We Shall Overcome」があちこちで歌われて広まって行き、やがては誰が作ったのかわからないまま、みんなの心をひとつにして、行動を支える歌となれば、それほど素晴らしいことはない。それは確実に大きな壁を崩すことに繋がる。そんな夢のようなことをぼくは考えてしまっている。

<関連リンク>

2012年7月13日国会前で歌っている新しい日本語詞の「We Shall Overcome」の映像
https://www.youtube.com/watch?v=QXsTaeHaDQk&feature=player_embedded#!

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