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アンダーウォーター
水中を優美に泳ぎまわるように見えつつ、水面下では激烈な男の世界が繰り広げられる競技、水球。高校運動部の厳しい練習に辟易しつつも耐え、ポップ・カルチャーを全身に浴びて過ごした90年代の回想的小説。

駄目押しの一点が決まった


登場人物


練習開始まで残り5分をきった頃、
青いバスローブを羽織った二年生部員たちがプールサイドに姿を現し始めた。
両手を頭上で組み大きく伸びをしたり、あくびをしたり、軽く肩や首を回したりしながら
悠然と、もしくは億劫そうな足取りで、彼らは歩いている。
競泳用プールを過ぎて水球用プールの前まで来ると一旦立ち止まり、
プールへ向かって軽く頭を下げて礼をした。
彼らが頭を上げ、こちらへ向かって歩き始めたところを見計らい、僕たちは大声で挨拶する。
「チワッ!」
それは体育会系クラブ独特の挨拶だ。
「チワ」は「こんにちは」の語尾からきているのだと思う。
「ワ」の後を少し伸ばしたり、途中から音程を下げてみたり、ひとりひとりの発音に特徴があった。

下級生から上級生への挨拶は「チワッ!」と決まっているが
上級生から下級生への挨拶には決まりがなく、適当だった。
光太郎、白井、一太、小柴、長谷部、イワン、それに僕の七人が口々に
「チワッ!」「チワゥ!」「チワー!」「チャッ!」と声をあげるのに対して
二年生部員の返事は「うす」、「おす」、黙礼、無視、などなど。

彼らは、テントの下の日陰に入ってバスローブを脱ぐ。
僕たちのチームに、揃いの水着はなかった。各々自由に穿きたい水着を穿く。
背中に名前を刺繍した、青いタオル地のバスローブだけが揃いのユニフォームだ。
バスローブは二年生以上に許されたアイテムで、一年生の僕たちは、まだそれを持っていなかった。

屋根の下に渡された鉄製のポールを物干竿に見立て、
脱いだばかりのバスローブや手に持ってきたタオルをこれにひっかける。
隙間なく垂れ下がるバスローブの群れにポールは軋み、
細い脚に支えられたテントは不安定に揺れる。

競泳用プールと水球用プールの間に立てられた高いポールの先端部には、時計が乗っている。
僕たちはいつも、その時計を目の端に入れながら行動していた。
長針が円の頂点を指す。午後2時。練習開始の時刻だ。
プールサイドには一年生部員7人、二年生部員が9人。
部員全員が揃っていることを確認して、主将の柏さんが口を開く。
「はい。じゃ、始めよか。んー、じゃあ今日はイワン、体操よろしく」

水着にサンダル履きという格好で、部員全員がテントのまわりに広がる。
柏さんから係に指名されたイワンは、皆の前に進み出て準備体操の音頭をとった。
「ハイじゃあ体操始めます。伸びてっ」

肩や腰、膝などの関節部分を大きく動かし、首、手首、足首を回転させ、筋肉を念入りにほぐす。
体操が一通り終わると、次はストレッチだ。これを怠ると、後で痛い目にあう。
練習中に太ももや足の裏の筋肉がつったからといって、休むことは許されない。
腕と脚を駆使し、テコの原理を応用したやりかたで、筋を念入りに伸ばす。

それから2人一組になってのストレッチにうつる。僕はすぐ隣にいた白井と組んだ。
互いに背中合わせに立って両腕を上げ、まず白井が僕の手首を掴んだ。
その状態で白井が前傾すると、僕の身体は後ろに倒れるようにして白井の背中に乗り、
地面から持ち上げられる。足が地面から浮いた時、
臍は太陽に晒され、背は逆反り、顎の上がった状態で目に映る世界は天地が逆転している。
頭に血がのぼり、僕は声にならない唸りを喉から漏らす。

頃合をみて、白井がゆっくりと体勢を戻し、僕たちは再び背中合わせに立った状態になる。
頭がクラクラするのが治まったら、今度は僕が白井の手首を握って前傾する番だ。
僕の背中の上に白井の背中が乗り、やがて白井の全体重85キロがのしかかってくる。
その重みに僕の膝はガクガクと震え出す。上になった白井は逆反った姿勢で
「ヨンピル〜、オイ、しっかり立て!」
そう言ってわざと身体を揺らし、さらに重みを加えるのだった。
「わっ、白井、バカ、マジ重いって、バカ、揺らすな、揺らすなって!」
僕は足の指先に力を入れて、必死にバランスを保つ。ふくらはぎに筋肉が漲る。

太陽が高い午後の時間。
八月は終わりに近づいているが夏は知らん顔で居座り続け、
去っていく気配は一向に感じられない。競うように鳴く蝉たちの声。
剥き出しの肌に直射日光を浴びる僕たちは、皆うっすらと汗をかいていて、
ストレッチで合わせた背中と背中は、ペタリと張りついてしまう。
男同士の冷たい肉の感触には、毎日繰り返しても慣れることができなかった。
けれどこの日僕の頭を支配していたのは、
背中で男の汗が混じりあうことの不快についてではなく、もちろん、まわしのことだった。

考えたくはないけれど、考えてしまう。僕は心配性なのだ。
まわしは本当に行なわれるのだろうか。やるとしたらいつ?明日?明日の夜?夜って何時?
まわしって、何を何分ぐらいやらされるんだ?
どうにかして、回避できる方向に持っていけないものだろうか……。
いくら考えたところで仕方がない、それは分かっている。
分かっているけれど、頭はそのことから離れないのだ。

イワンは真剣な表情で体操係の役目を務めていた。
イワンという呼び名はあだ名で、本名は黒岩という。
色白で寡黙。いつも曇り空を貼りつけたような表情を浮かべている。
太ってはいないのだが、どことなくムチムチとした身体つきだった。
四月の入部時、三年生部員から「お前、なんかロシア人っぽいな」と言われ、
本名の「岩」とかけて、この渾名をつけられた。
本人はこの呼び名を気に入ってはいないようだが、別段嫌がることもなかった。

イワンは高校で水球を始めるまで、水泳部に属したことはなかったという。
どうして水球部を選んだのかは分からない。
クロールの丁寧なフォームを身につけていたが、丁寧すぎて遅かった。
中学の三年間を水泳部で過ごしてきた者と比べるとその泳ぎには力強さが足りなかったし、
スタミナも不足していた。それでも四月の入部以来、
彼は水泳部経験者と同じ厳しい練習メニューを(真っ青になりながら)こなしてきたのだ。
イワンは我慢強い、真面目な男だった。

入念な準備体操が終わった。
皆、テントの下にビーチサンダルを脱ぎ、プールの方へと歩を進める。
練習が始まる。始まっちゃうなあー……
人知れず溜め息をつくため二年生の立っていない方向を向くと、
Tシャツに短パン姿で歩いてくる安川監督の姿が目に入った。
「チワッ!」僕は溜め息を呑み込み、大声で挨拶をする。
すぐに部員全員が安川の方を向き「チワゥ!」「チワ!」「チャ!」頭を下げた。
「うーす」口ひげの整った38才・安川監督は軽く手を挙げて挨拶を返し
「柏ー、午後練のメニュー教えて」と主将を呼んだ。

柏さんと監督がテントの下に入り、練習内容の打ち合わせを始める。
僕たち一年生はストレッチをしたり、肩をまわしたりしながら
素知らぬ顔で監督と主将の会話に耳をそばだてる。
副将の針山が低く怒鳴った。
「おら、早く水に入れ!毎回毎回同じこと言わせんじゃねえよ」

ドボッ!バシャッ!皆、次々にプールへ飛び込んでいく。
今はとにかく、まわしのことは忘れよう。
僕はプールサイドで助走をつけ、思いきり高く跳び、プールへと身を躍らせた。
空中に浮いている一瞬は何ものからも自由で、その瞬間がいつまでも続けばいいと、僕は願う。
緩い曲線を描いて身体は落下し、爪先が水面を突き破る。
空中に飛沫が舞い、音のない世界へ沈んでいく全身を、無数の泡が包みこむ。
全ての泡が水面へと昇っていく頃、身体の落下速度は失われ、
やがて深いプールの底に足の裏がついて、停止する。
このままずっと水の底にいられたらいいと僕は思う。
練習でさえなければ、音も重力もない水の中で過ごすことは、本当に気持ち良いのだ。
水中でひとつ溜め息をつく。
口もとと鼻の穴から出た大きな泡がゆっくりと昇っていくのを、水底から見つめた。
溜め息はいつだって僕に親しい。思いきり底を蹴って一気に浮かび上がった。

水から顔を出すと、一分前まではまるで鏡のように平たく静まりかえっていた水面は
今や大きく波打っていた。
プールサイドに立っているのは、首から笛をぶらさげた柏さんと監督だけ。
他の15人はもう全員がプールの中だ。
15人は、互いに2〜3メートル離れた位置で巻き足を始めた。

椅子に腰掛けるような姿勢で脚を大きく広げ、
膝から下だけを動かして浮力を得る運動を「巻き足」という。
左脚の膝から下を時計まわりに、右脚の膝から下を時計の反対まわりに、
交互に回転させることでスクリューのような安定した浮力が生じる。
マスターすれば脚の動きだけで身体を浮かべることが可能になり、
それはつまり浮いた状態で手を自由に使えるようになるということだ。
巻き足は、水球やシンクロナイズド・スイミングの基本動作である。

巻き足で浮いた状態で、最初に声出しを始めたのは白井だった。
「ぅえいっ、ぅえいっ」これもまた、体育会独特の掛け声だ。
すぐに他の一年生部員6人が同調し、白井の掛け声の裏の拍で声をあげた。
白井「ぅえいっ」、6人「ぅえいっ」、白井「ぅえいっ」、6人「ぅえいっ」、という具合に。
やがて二年生部員もこれに加わり、声をあげる。大きな声を出しながら、主将の指示を待つ。

柏さんは首から下げたホイッスルを口にくわえ、今にも吹こうとしていた。
が、ふとプールサイドを見回し、軽く首を傾げると、ホイッスルを口から離して、言った。
「あのさ。タイマー……、タイマーが出てないんだけど」

掛け声が止んだ。
練習で使う、秒針と分針のスポーツ・タイマーが用意されていなかったのだ。
タイマーは練習前に倉庫から出して、プールサイドにセットしておかなければならない。
それはもちろん一年生部員の仕事だ。
タイマーを運ぶ係は、誰とは決まっていない。
日頃は誰か、手の空いた者がその仕事をしていた。

倉庫から最も近い場所で巻き足をしていた光太郎と小柴が、大急ぎで水から上がった。
何かに追われるような勢いでプールサイドを走り、倉庫へと駆け込む。
一年生たちは顔をしかめて、二年生たちは「あーあ」と意地悪い笑みを浮かべながら
タイマーを運び出す2人をじっと眺めている。
暗雲がたちこめるように不安が蘇り、僕の頭の中を確実に支配した。
駄目押しの一点が決まった。

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